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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

記事目次

(2017/4/8 更新)

四聖諦=苦諦、集諦、滅諦、道諦。

目指すべきもの(滅諦)が分かれば、取るべき方法(道諦)がわかる。

現状を観察すれば(苦諦、集諦)、目指すべきもの(滅諦)がわかる。

それはDukkha(苦)からの解放。

■免責事項

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

 

■苦諦:なぜ輪廻から解脱する必要があるのか。足のすくむような深遠な輪廻の実体。

 

「涙経(Assu-sutta)」 - 相応部経典 15.1.3 

 

輪廻のなかで流された血―三十人経(Tiṃsamatta-sutta) 

 

人身受け難し(1) Dhammapada 182、爪先経(Nakhasikha sutta)

 

人身受け難し(2)―盲亀浮木の喩え(Dutiyachiggaḷayuga-sutta)

 

人身受け難し(3)―Saṃyutta-Nikāya(相応部経典)の最後のセクション「第五の生殻中略の章」

 

※参考

ブッダの言葉だけで悟る特殊な人々。

■集諦

無我論(1)―ブッダが否定した我(Atta)とは? 

 

無我論(2)―我(Attan)についての無記(アーナンダ経 Ānanda-sutta)

■滅諦:苦の消滅

「第一涅槃関係経 Paṭhamanibbānapaṭisaṃyutta-sutta」―ブッダが涅槃について詳細に語った経典 

 

阿羅漢の境地―雇われ人が報酬を待つように死を待つ。

■道諦

比丘は、具足戒を受けていない者に「私は預流果だ」「私は初禅に達した」などと語ってはならない。

 

解脱の十二縁起 Upanisa-sutta(ウパニサ・スッタ 縁由経)

■その他

衆生済度について―第二魔罠経(Dutiyamārapāsasuttaṃ)

■Loka Dhamma(世間法)

世界の守護者:HiriとOtappa ―Guardians of the World

■検証

スマナサーラ長老「『悟り』は日本独自の言葉」 

 

「自灯明(Attadīpā)」の本当の意味。 

 

「ブッダは輪廻転生について無記の態度をとった」説は本当か?(書きかけ) 

 

■法話、資料

マハーカルナー禅師の原始仏教トーク(YouTube、Podcast版)まとめ 001~040(全)

 

パーリ語辞書

 

過去の「修行者のためのアビダンマ講座」や「原始仏教トーク」などのマハーカルナー禅師の法話を聞く方法 

 

パーリ語文字入力法 

■健康

【良記事紹介】Soyさん「長年医者に見落とされ続けた体調不良が難病だと判明した」

 

■2017年

避けたほうがよい指導者。(私見) 

脱仏教ーキリスト教とイエス・キリストの教えとが違うように……

https://twitter.com/irrtenko/status/801431614723006464

河出文庫『ヨーロッパ中世(9)』読書メモ
・現在「キリスト教」と思われているものは、キリストの死後約千年ほどかけて、ゆっくり形成されてきたもの。
・日曜のミサ、告解、聖体拝領なども、最初から信者の義務ではなかった。また、洗礼、婚姻、死亡の教会への登録も行われていなかった。

 

世界の歴史〈9〉ヨーロッパ中世 (河出文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/B00LQ5JE82/ref=cm_sw_r_cp_api_Wc6hzbQHX767W

 

  キリスト教イエス・キリストの教えは必ずしもイコールではないらしい。

 

  私は、同様に「ブッダの教え」と「仏教」は、ちがうものだと思っている。

 

  端的に言うと、

 

ブッダの教え=2500年前のインドに生きていたゴータマ・ブッダの教え

仏教=2500年の過去から現在に至るまで、インドからアジアで形成されてきた何か

 

だと思っている。

 

  私自身は、世間でいう「仏教

というものに興味がない。そういう意味で自分は仏教徒ではない。

 では、何に興味があるかというと 純然たる「ブッダの教え」に興味がある。

  私は、自分は仏教徒ではなく、Sāvaka(サーワカ 仏弟子)だと思っている。

 

  個人的に思うのは、仏教徒というのは、「仏教」という宗教の徒であるということだ。

    Sāvaka(仏弟子)というのは、ブッダと自分の一対一の関係。Dhamma(法)と自分の一対一の関係だと思っている。

 

  キルケゴール的にいうと単独者として、個人で、ブッダやダンマに対峙して行くのがSāvakaだと思っている。

 

  「仏教」という話になると、大乗とかテーラワーダとか何が正しいかという話がある。

  しかし、私はそれは本質ではないと思っている。

  では、本質は何かというと「何が必要か」だと思っている。

 

  例えば、南伝の比丘は、般若心経も唯識も仏性も知らずとも、阿羅漢果を得ている。

  般若心経や唯識が正しいかという議論は置いておいて、煩悩を滅し精神を完全に清浄にし、一切の苦を根絶するには、般若心経や唯識は必要ないということだ。

 そういったものを一切知らずとも、精神の清浄、苦の根絶は達成できるということだ。

 

  そして、それでいいのではないだろうか?

 

  重要なのは、目的を達成するために何が必要かということ。

  そして目的は何か。目的を達成するための手段は何かということ。

 

  ブッダの死後に様々に形成されたあれこれに対して、「過去の教えと矛盾している」とかあれこれ思い悩んで必要以上に消耗する必要はないと思う。

 

  苦の根絶や煩悩の根絶に自分にとって何が必要かということを見極めさえすればよい。

 

  私は、いわゆる仏教からはなるべく距離を置こうとしているし、いわゆる仏教仏教徒という概念に違和感を覚える。