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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

人身受け難し(2)―盲亀浮木の喩え(Dutiyachiggaḷayuga-sutta)

 一部では有名な盲亀浮木(もうきふぼく)の喩え。

 

 これの原典もSaṃyutta-Nikāyaにあった。

 これも人身受け難きこと、ブッダの説かれた正法の聞き難きを説いた教えである。

 まず、地球の大地(mahāpathavī)すべてが一面の海(ekodakā)であると仮定する。

 そのうえで、1つの輪を投げ入れる。その輪は当然、風に流され、場所は不定である。

 そして、100年に一度、浮上してくる盲目の(kāṇo)の亀(kacchapo)がいたとして、その盲目の亀が広い大海をフラフラと漂う輪に首を突っ込むのはどのくらいの確率か。

 途方も無いほど稀有なこと言っていい。

 そして、人間として生まれるのは同じくらい稀有なことである。

 また、ブッダの教えと出会えるということも同じくそのくらい稀有な滅多にないことである。ということが語られる。

 しかし、今、まさに人身を受け、仏の教えを聞けているという稀有の中の稀有なことが起こっている。

 それゆえ、この貴重なチャンスを逃すな四聖諦を修せよ。

 という経典である。

 この原典を読んで、驚いたことがある。

 自分の聞いた話では、この海というのは、「太平洋」とかだと思っていた。

 しかし、原典を読むと、ブッダの喩えは、そんな生半可なものではなく、「地球上の大地のすべてが水に覆われていたら」という仮定で話されているのだ。

 これは、盲目の亀が首に軛を突っ込むというは、太平洋の場合とくらべても、一段と果てしなく稀有なことになる。

 

 「人身受難し」などこの手の話を集めているのは、単なる雑学のためでなく、四護衛禅の中の1つであるMaraṇānussati(死随念)のためである。

 いつ死ぬかわからないこと。死んでどこに転生するかわからないこと。そして、受け難き人身を得ていることを随念し、自分の心に修業にたいする危機感を起こさせる。

 そういうMaraṇānussatiという文脈においても、この「盲亀浮木の喩え」は、個人的に感じるものがあった。

 「修業遂行への逼迫感」を「Saṁvega」というらしいが、最近、正しい危機感、Saṁvegaというのは重要だと考えている。

 また、Dutiyachiggaḷayuga-suttaというのは、日本語でどういう訳なのかがわからないので、 「第二軛穴経」とした。

 この訳の次にPaṭhamachiggaḷayuga-sutta(第一軛穴経)を取り上げる。

 

Saṃyutta-Nikāya 5.Mahā-vagga 12.Sacca-saṃyutta 5. Papāta-vagga 8.Dutiyachiggaḷayuga-sutta

相応部経典 5.大篇 12.諦相応 5.断崖品 8.第二軛穴経

 

「比丘たちよ、たとえばこの大地が一面、水のみであるとします。男がそこに穴のあいたくびきを投げ込むとします。そのようなこれを、東からの風は、西方に運びゆくでしょう。西からの風は東方に運びゆくでしょう。北からの風は南方に運びゆくでしょう。南からの風は北方に運びゆくでしょう。

 そこに100年の経過ごとに一度浮かび上がるような目の不自由な亀がいるとします。

 比丘たちよ、それをどのように考えますか。その目の不自由な亀は100年の経過ごとに一度浮かび上がりながら、穴のひとつあいたこのくびきに首を突っ込むでしょうか」

 「世尊よ、その目の不自由な亀は100年ごとに一度ずつ浮かび上がりながら、まさにこの穴のひとつあいたくびきに首を突っ込むであろうことは、これは稀有なことです」

 「比丘たちよ、人間たることを獲得すること、このことは同じように稀有なことなのです。比丘たちよ、ふさわしい(応供)者、正しく完全に目覚めている人である修業完成者(sammāsambuddho)は世に登場している。比丘たちよ、修業完成者によって説き示された教法や戒律(dhammavinayo)は世に輝いている。
 比丘たちよ、だからここで、『これがDukkhaである』という集中が作られるべきである。『これがDukkhaの出現である』という集中が作られるべきである。『これがDukkhaの滅である』という集中が作られるべきである。『これがDukkhaの滅に至る道である』という集中が作られるべきである。」

 (中村元監修『原始仏典 相応部経典』を参考に訳文を作成)

 

8. Dutiyachiggaḷayugasuttaṃ

1118. ‘‘Seyyathāpi , bhikkhave, ayaṃ mahāpathavī ekodakā assa. Tatra puriso ekacchiggaḷaṃ yugaṃ pakkhipeyya. Tamenaṃ puratthimo vāto pacchimena saṃhareyya, pacchimo vāto puratthimena saṃhareyya, uttaro vāto dakkhiṇena saṃhareyya, dakkhiṇo vāto uttarena saṃhareyya. Tatrassa kāṇo kacchapo. So vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjeyya. Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, api nu kho kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā’’ti?

‘‘Adhiccamidaṃ, bhante, yaṃ so kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā’’ti.

‘‘Evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ manussattaṃ labhati. Evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ tathāgato loke uppajjati arahaṃ sammāsambuddho. Evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ tathāgatappavedito dhammavinayo loke dibbati. Tassidaṃ [tayidaṃ (?)], bhikkhave, manussattaṃ laddhaṃ, tathāgato loke uppanno arahaṃ sammāsambuddho, tathāgatappavedito ca dhammavinayo loke dibbati.

‘‘Tasmātiha, bhikkhave, ‘idaṃ dukkha’nti yogo karaṇīyo…pe… ‘ayaṃ dukkhanirodhagāminī paipadā’ti yogo karaṇīyo’’ti. Aṭṭhamaṃ.

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0305m.mul11.xml

 

 そこで、次に取り上げるのが、Paṭhamachiggaḷayuga-sutta(第一軛穴経)である。

 これは、人間から、Apāya(地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣)に堕したとき、そこから這い上がるのがどれだけ難しいかが説かれている。

 なぜ、這い上がるのが難しいか?

 それは、Apāyaにおいては、善行(Kusalakiriyā)をなすことが非常に難しい。

というか、そもそも、善行がない世界である。

 この下界についてブッダは、Aññamaññakhādikā、共喰いをしていると語っている。

 このような悲惨な境涯に生まれないためにはどうすればよいのか。

 やはり、ここでも、四聖諦を看破するというのがこここら逃れる鍵になってくる。

 

 Dukkhassa ariyasaccassa(苦聖諦)

 Dukkhasamudayassa ariyasaccassa(苦集諦)

 Dukkhanirodhassa ariyasaccassa(苦滅諦)

 Dukkhanirodhagāminiyā paipadāya ariyasaccassa(苦滅道諦)

 

 Saṃyutta-NikāyaのSacca-saṃyutta(諦相応)は、諦相応というだけあって、

このような四聖諦の説示が繰り返し繰り返し何回も出てくる。

 Buddha Dhammaの真髄が四聖諦であることを改めて認識させられる。

 

Saṃyutta-Nikāya 5.Mahā-vagga 12.Sacca-saṃyutta 5. Papāta-vagga 7. Paṭhamachiggaḷayugasuttaṃ
相応部経典 5.大篇 12.諦相応 5.断崖品 7.第一軛穴経


 「比丘たちよ、男がそこに穴のあいたくびきを大海に投げ込むとします。また、そこ(大海中)に100年の経過ごとに一度浮かび上がるような目の不自由な亀がいるとします。
 比丘たちよ、それをどのように考えますか。その目の不自由な亀は100年の経過ごとに一度浮かび上がりながら、穴のひとつあいたこのくびきに首を突っ込むでしょうか」
 「世尊よ、長い期間が経過するうちに、もしかしてあるときどこかであるかもしまれせん」
 「比丘たちよ、その目の不自由な亀が100年の経過ごとに一度浮かび上がりながら、穴のひとつあいたこのくびきに首を突っ込むほうがより早いのです。比丘たちよ、一度下界へと堕した愚か者が人間となることの方[がより早い]ですとはわたしは言いません。それはどのような理由ででしょうか?
 というのも、比丘たちよ、そこには教法にしたがった振る舞い(dhammacariyā)、正しい振る舞い(samacariyā)、善をつくること(kusalakiriyā)、福徳をつくること(puññakiriyā)が存在しないからです。比丘たちよ、ここでは、互いに喰い合うことや弱者を喰うことがまかり通っているのです。
 それはどういう理由ででしょうか?
 比丘たちよ、立派な人にとっての四聖諦が見られていないからである。どのような4つか。Dukkhassa ariyasaccassa(苦聖諦)、Dukkhasamudayassa ariyasaccassa(苦集諦)、Dukkhanirodhassa ariyasaccassa(苦滅諦)、Dukkhanirodhagāminiyā paipadāya ariyasaccassa(苦滅道諦)である。
 比丘たちよ、したがって、ここで、『これがDukkhaである』という集中が作られるべきです。『これがDukkhaの出現である』という集中が作られるべきである。『これがDukkhaの滅である』という集中が作られるべきである。『これがDukkhaの滅に至る道である』という集中が作られるべきです。」

 

7. Paṭhamachiggaḷayugasuttaṃ

1117. ‘‘Seyyathāpi, bhikkhave, puriso mahāsamudde ekacchiggaḷaṃ yugaṃ pakkhipeyya. Tatrāpissa kāṇo kacchapo. So vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjeyya. Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, api nu kho kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā’’ti?
‘‘Yadi nūna, bhante, kadāci karahaci dīghassa addhuno accayenā’’ti.

‘‘Khippataraṃ kho so, bhikkhave, kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyya, na tvevāhaṃ, bhikkhave, sakiṃ vinipātagatena bālena [vinītagatena bahulena (ka.)] manussattaṃ vadāmi’’.

Taṃ kissa hetu? Na hettha, bhikkhave, atthi dhammacariyā, samacariyā, kusalakiriyā, puññakiriyā.
Aññamaññakhādikā ettha, bhikkhave, vattati dubbalakhādikā. Taṃ kissa hetu? Adiṭṭhattā, bhikkhave, catunnaṃ ariyasaccānaṃ. Katamesaṃ catunnaṃ? Dukkhassa ariyasaccassa…pe… dukkhanirodhagāminiyā paipadāya ariyasaccassa.

‘‘Tasmātiha, bhikkhave, ‘idaṃ dukkha’nti yogo karaṇīyo…pe… ‘ayaṃ dukkhanirodhagāminī paipadā’ti yogo karaṇīyo’’ti. Sattamaṃ.

 

chiggaḷa:穴
mahāsamudda:大海
yuga:軛(くびき)
kāṇo:目の不自由な
kacchapo:亀
vassa:年
sata:百
ummujji:自ら浮き出る
cariyā:行、行為、所行
aññamañña:相互に
khādaka:食べる
dubbala:弱いもの

 

 

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