仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

比丘は、具足戒を受けていない者に「私は預流果だ」「私は初禅に達した」などと語ってはならない。

Buddhābhivādanā 礼拝文Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。Bhājemi Pūjā 廻向偈Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。Idaṃ …

阿羅漢の境地―雇われ人が報酬を待つように死を待つ。

1001.‘‘Nābhinandāmi maraṇaṃ, nābhinandāmi jīvitaṃ;Nikkhipissaṃ imaṃ kāyaṃ, sampajāno patissato. 1002.‘‘Nābhinandāmi maraṇaṃ, nābhinandāmi jīvitaṃ;Kālañca paṭikaṅkhāmi, nibbisaṃ bhatako yathā. 1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わた…

「物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ」(スッタニパータ第五章)―仏道修行のゴール2

物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。(Jahassu rūpaṃ apunabbhavāya) 渇愛を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。(jahassu taṇhaṃ apunabbhavāyā) これも、「Dukkha(苦)からの解放は、肉体と渇愛を捨てさって、もう二…