仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

道元禅師 「坐禅は坐禅なり」の出典は、正法眼蔵「坐禅箴」

道元禅師

『 坐禪は坐禪なり 』

個人的によく見かける言葉だが、出典が長い間わからずじまいだった。

しかし、最近、出典がわかったので、メモとして書き留める。

道元禅師 「坐禅坐禅なり」の出典は、正法眼蔵坐禅箴」である。

95巻本では27巻、75巻本では12巻。

正法眼蔵坐禅箴」のデータに関しては以下の記事を参考。

 

坐禅箴 - つらつら日暮らしWiki〈禅・仏教関連用語集〉 

seesaawiki.jp

 

いまいふところは、坐禪は坐禪なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと單傳するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智斷をもとめん。

引用:

http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou12/index.html

www.shomonji.or.jp

 

坐禅坐禅なり。だが、

しかあればすなはち、古來なりといへども、坐禪を坐禪なりとしれるすくなし。

以下、原田雪溪老師のお言葉

道元禅師は「坐禅坐禅なり」とおっしゃっている。
説明を要しない。
坐禅坐禅なりというふうにならないといけないということでございます。
坐禅をする時、どういう気持ちで坐ったらいいか」。
それでは離れますでしょう?
そんな、坐禅をする時どういう気持ちで坐るとか、どういう心がけで坐るということは不必要なんです。
単純に、本当に坐ればいい。

原田雪溪老師『自我の本質―The・禅 その3』ペンハウス 1997年
p.170

 

単純に、本当に坐ればいい。

 

これは、実際に、挑戦したことがある人なら、難しいと知っているはずだ。

まさに、

古來なりといへども、坐禪を坐禪なりとしれるすくなし。

である。

 

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