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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

比丘は、具足戒を受けていない者に「私は預流果だ」「私は初禅に達した」などと語ってはならない。

Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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Vinayapiṭaka Pācittiyapāḷi 5. Pācittiyakaṇḍaṃ

律蔵 比丘戒 (5)波逸提

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/vin02m1.mul0.xml

 

69.‘‘Yo pana bhikkhu anupasampannassa uttarimanussadhammaṃ āroceyya bhūtasmiṃ, pācittiya’’

 

いずれの比丘といえども具足戒を受けていないものに対して、上人法(Uttarimanussadhamma)を体得していると語るならば、真実であってもPācittiya(パーチッティヤ 波逸提 はらいつだい)である。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E9%80%B8%E6%8F%90

 

一人の、真の聖者は、少欲、知足で謙虚であり、自分の証悟した内容を漏らす事は絶対にありません。もし、聖者が比丘又は比丘尼であった場合、仏陀の制定した戒・律により、彼(又は彼女)は、具足戒を得ていない人に、自己の証悟について語ってはいけない事になっています。具足戒を受けていない人というのは、サマネーラ、サマネーリーと在家居士です。また、大龍大長老の逸話から、誰かの証悟を確定するのは、非常に困難な事が分かります。こうした事から、自分の修行の成果を他人に教えない方が良いのです。もう一つ考慮しなければならないのは、ある人はあなたを信用しますが、ある人は信用しない、という事です。もし、あなたが真実、道果を証悟しているならば、あなたを信用しない人達は、重大な悪業を作った事になり、彼らに障害をもたらす事になります。この事から、聖道を証悟したという情報は、何らかの人々にとって、仏法への信頼の心を起こす事が出来るとしても、自分の修行の成果は、一つも、人に話さない方がよいのです。

『パオ・セヤドー問答集』p.113

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/3paauk.htm

 

 「上人法(Uttarimanussadhamma)を体得していることを、具足戒を受けていない者に話してはいけない。」

 これは、原始仏教トーク25「梵行すでに立ち、所作すでに辨ず - 原始仏典にみる修行の双輪 -」でマハーカルナー禅師がお話されてました。

 上記のように、ブッダが制定なさったパーティモッカ227戒の中で決まっているらしいです。

 上人法(Uttarimanussadhamma)は、マハーカルナー禅師によれば、Paṭhamajjhāna(パタマジャーナ 初禅)以上らしいです。

 ただし、比丘が修行を指導する中で体験したということが、暗示されてしまうのは、仕方がないとか。