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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

解脱の十二縁起 Upanisa-sutta(ウパニサ・スッタ 縁由経)

Saṃyutta-Nikāya 相応部経典

  このUpanisa-suttaのUpanisaとは、ウパニシャッド哲学のウパニシャッドと同じ語源である。ともに「近くに座す」の意味だ。

 ウパニシャッドのほうは、「師の近くに座す秘伝」のような意味合いがあるらしい。

 このUpanisa-suttaのUpanisaは、どちらかというと、Paṭṭhāna(二十四縁起)でいうところのUpanissaya-paccayo(強依縁 ごうええん)的意味合いがある。

 Avijjā(無明)から始まり、Vimutti(解脱)→Āsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)までの縁起を説く経典。先日、マハーカルナー禅師の「サンガくらぶ」でお話があった。

 Avijjāから始まり、Jarāmaraṇa(老死) Soka-parideva-dukkha-domanassa-upāyāsa(憂・悲・苦・悩・愁)で終わる十二縁起は有名だ。

 しかし、DukkhaからSaddhā(信)が起動して、解脱涅槃までの縁起を説く、このLokuttara(出世間)のPaṭiccasamuppāda(十二縁起)というのは、あまり聞いたことがない話だった。

 この経典を読んで、いろいろ驚いたことがある。

 Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)がVipassanā ñāṇaだということは、なんとなくわかる。

 Nibbidā(厭離)、Virāga(離貪)が、Vipassanā ñāṇaでしかも、Yathābhūtañāṇadassanaよりも強いÑāṇaだという話は始めて知った。

 以上のように、この経典は註釈が非常に、興味深い。

 日本では、パーリ経典の翻訳で、註釈は、わりとなおざりにされるパターンが多いのだが、片山訳はそこらへんもしっかり訳されている。

  なお、この経典に書かれているDukkha以降の縁起を「LokuttaraのPaṭiccasamuppāda(十二縁起)」とする見方は、パーリ小部『導論(Netti-pakarana) (※しばしば蔵外扱い)』によるものらしい。

(片山一良『パーリ仏典入門』p.205)

 

 はじめにこのUpanisa-suttaに書かれている縁起をまとめる。

 

【Kiriya(世間)的な縁起】
1.Avijjā(無明)→
2.Saṅkhāra(行)→
3.Viññāṇa(識)→
4.Nāmarūpa(名色)→
5.Saḷāyatana(六処)→
6.Phassa(触)→
7.Vedanā(受)→
8.Taṇhā(渇愛)→
9.Upādāna(取)→
10.Bhava(有)→
11.Jāti(生)→

12.Dukkha(苦)→


【Lokuttara(出世間)的な縁起】

1.Saṅkhāra dukkha(行苦)→
2.Saddhā(信)→
3.Pāmojja(悦)→
4.Pīti(喜)→
5.Passadhi(軽安)→
6.Sukha(楽)→
7.Samādhi(定)→
8.Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)→
9.Nibbidā(厭離)→
10.Virāga(離貪)→
11.Vimutti(解脱)→
12.Āsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)

 

Upanisa-sutta 縁由経 

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 1. Nidānasaṃyuttaṃ 3. Dasabalavaggo

相応部経典 2.因縁篇 1.因縁相応 3.十力の章 3 

 

 このように私は聞いたー
 あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。
 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ」と。
 「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。
 世尊は次のように言われた。
 「比丘たちよ、私は知る者に、見る者に、もろもろの煩悩の滅尽があると説きます。知らない者にではありません。見ない者にではありません。
 比丘たちよ、それでは、何を知る者に、何を見る者に、もろもろの煩悩の滅尽があるのでしょうか。
 <このようにRūpa(色)がある、このようにRūpa(色)の生起がある、このようにRūpa(色)の消滅がある、

このようにVedanā(受)がある、このようにVedanā(受)の生起がある、このようにVedanā(受)の消滅がある、

このようにSaññā(想)がある、このようにSaññā(想)の生起がある、このようにSaññā(想)の消滅がある、

このようにSaṅkhāra(行)がある、このようにSaṅkhāra(行)の生起がある、このようにSaṅkhāra(行)の消滅がある、

このようにViññāṇa(識)がある、このようにViññāṇa(識)の生起がある、このようにViññāṇa(識)の消滅がある>
と、比丘たちよ、このように知る者に、このように見る者に、もろもろの煩悩の滅尽があります。
 比丘たちよ、滅尽におけるĀsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)は縁として生じたものと私は説きます。これらに縁起関係がないとは私は説きません。
 比丘たちよ、それでは、何がĀsavakkhaya-ñāṇaを生じさせる縁でしょうか?Vimutti(解脱)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Vimuttiもまた、Āsavakkhaya-ñāṇaを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がVimutti(解脱)を生じさせる縁でしょうか?Virāga(離貪)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Virāga(離貪)もまた、Vimuttiを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
  比丘たちよ、それでは、何がVirāga(離貪)を生じさせる縁でしょうか?Nibbidā(厭離)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Nibbidāもまた、Virāgaを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がNibbidā(厭離)を生じさせる縁でしょうか?Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Yathābhūtañāṇadassanaもまた、Nibbidāを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がYathābhūtañāṇadassanaを生じさせる縁でしょうか?Samādhi(定)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Samādhi(定)もまた、Yathābhūtañāṇadassanaを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がSamādhiを生じさせる縁でしょうか?Sukha(楽)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Sukhaもまた、Samādhiを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がSukha(楽)を生じさせる縁でしょうか?Passadhi(軽安)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Passadhiもまた、Sukhaを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がPassadhi(軽安)を生じさせる縁でしょうか?Pīti(喜)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Pītiもまた、Passadhiを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がPīti(喜)を生じさせる縁でしょうか?Pāmojja(悦)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Pāmojjaもまた、Pītiを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がPāmojja(悦)を生じさせる縁でしょうか?Saddhā(信)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Saddhā(信)もまた、Pāmojja(悦)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がSaddhā(信)を生じさせる縁でしょうか?Dukkha(苦)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Dukkhaもまた、Saddhāを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がDukkha(苦)を生じさせる縁でしょうか?Jāti(生)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Jāti(生)もまた、Dukkhaを生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がJāti(生)を生じさせる縁でしょうか?Bhava(有)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Bhava(有)もまた、Jāti(生)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。

 比丘たちよ、それでは、何がBhava(有)を生じさせる縁でしょうか?Upādāna(取)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Upādāna(取)もまた、Bhava(有)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がUpādāna(取)を生じさせる縁でしょうか?Taṇhā(渇愛)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Taṇhā(渇愛)もまた、Upādāna(取)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がTaṇhā(渇愛)を生じさせる縁でしょうか?Vedanā(受)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Vedanā(受)もまた、Taṇhā(渇愛)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がVedanā(受)を生じさせる縁でしょうか?Phassa(触)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Phassa(触)もまた、Vedanā(受)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がPhassa(触)を生じさせる縁でしょうか?Saḷāyatana(六処)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Saḷāyatana(六処)もまた、Phassa(触)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がSaḷāyatana(六処)を生じさせる縁でしょうか?Nāmarūpa(名色)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Nāmarūpa(名色)もまた、Saḷāyatana(六処)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がNāmarūpa(名色)を生じさせる縁でしょうか?Viññāṇa(識)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Viññāṇa(識)もまた、Nāmarūpa(名色)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がViññāṇa(識)を生じさせる縁でしょうか?Saṅkhāra(行)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Saṅkhāra(行)もまた、Viññāṇa(識)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。
 比丘たちよ、それでは、何がSaṅkhāra(行)を生じさせる縁でしょうか?Avijjā(無明)であると言わねばなりません。比丘たちよ、Avijjā(無明)もまた、Saṅkhāra(行)を生じさせる縁であると私は説きます。縁起関係がないものとしてではありません。

 

Sāvatthiyaṃ viharati…pe… ‘‘jānato ahaṃ, bhikkhave, passato āsavānaṃ khayaṃ vadāmi, no ajānato no apassato. Kiñca, bhikkhave, jānato kiṃ passato āsavānaṃ khayo hoti ?
Iti rūpaṃ iti rūpassa samudayo iti rūpassa atthaṅgamo,
iti vedanā…pe… iti saññā… iti saṅkhārā… iti viññāṇaṃ iti viññāṇassa samudayo iti viññāṇassa atthaṅgamoti. Evaṃ kho, bhikkhave, jānato evaṃ passato āsavānaṃ khayo hoti’’.
‘‘Yampissa taṃ, bhikkhave, khayasmiṃ khayeññāṇaṃ, tampi saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, khayeñāṇassa upanisā? ‘Vimuttī’tissa vacanīyaṃ. Vimuttimpāhaṃ [vimuttimpahaṃ (sī. syā. kaṃ.)], bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, vimuttiyā upanisā? ‘Virāgo’tissa vacanīyaṃ. Virāgampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, virāgassa upanisā? ‘Nibbidā’tissa vacanīyaṃ. Nibbidampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, nibbidāya upanisā? ‘Yathābhūtañāṇadassana’ntissa vacanīyaṃ. Yathābhūtañāṇadassanampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, yathābhūtañāṇadassanassa upanisā? ‘Samādhī’tissa vacanīyaṃ. Samādhimpāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
‘‘Kā ca, bhikkhave, samādhissa upanisā? ‘Sukha’ntissa vacanīyaṃ. Sukhampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, sukhassa upanisā? ‘Passaddhī’tissa vacanīyaṃ. Passaddhimpāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, passaddhiyā upanisā? ‘Pītī’tissa vacanīyaṃ. Pītimpāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, pītiyā upanisā? ‘Pāmojja’ntissa vacanīyaṃ. Pāmojjampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, pāmojjassa upanisā? ‘Saddhā’tissa vacanīyaṃ. Saddhampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
‘‘Kā ca, bhikkhave, saddhāya upanisā? ‘Dukkha’ntissa vacanīyaṃ. Dukkhampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, dukkhassa upanisā? ‘Jātī’tissa vacanīyaṃ. Jātimpāhaṃ , bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
Kā ca, bhikkhave, jātiyā upanisā? ‘Bhavo’tissa vacanīyaṃ. Bhavampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi , no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, bhavassa upanisā? ‘Upādāna’ntissa vacanīyaṃ. Upādānampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ. Kā ca, bhikkhave, upādānassa upanisā? ‘Taṇhā’tissa vacanīyaṃ. Taṇhampāhaṃ, bhikkhave, saupanisaṃ vadāmi, no anupanisaṃ.
‘‘Kā ca, bhikkhave, taṇhāya upanisā? ‘Vedanā’tissa vacanīyaṃ…pe… ‘phasso’tissa vacanīyaṃ… ‘saḷāyatana’ntissa vacanīyaṃ… ‘nāmarūpa’ntissa vacanīyaṃ… ‘viññāṇa’ntissa vacanīyaṃ… ‘saṅkhārā’tissa vacanīyaṃ. Saṅkhārepāhaṃ, bhikkhave, saupanise vadāmi, no anupanise. Kā ca, bhikkhave, saṅkhārānaṃ upanisā? ‘Avijjā’tissa vacanīyaṃ.

 

【Kiriya(世間)的な縁起】
 比丘たちよ、このようにAvijjā(無明)を縁としてSaṅkhāra(行)があり、Saṅkhāra(行)を縁としてViññāṇa(識)があり、Viññāṇa(識)を縁としてNāmarūpa(名色)があり、Nāmarūpa(名色)を縁としてSaḷāyatana(六処)があり、Saḷāyatana(六処)を縁としてPhassa(触)があり、Phassa(触)を縁としてVedanā(受)があり、Vedanā(受)を縁としてTaṇhā(渇愛)があり、Taṇhā(渇愛)を縁としてUpādāna(取)があり、Upādāna(取)を縁としてBhava(有)があり、Bhava(有)を縁としてJāti(生)があり、Jāti(生)を縁としてDukkha(苦)があります。


【Lokuttara(出世間)的な縁起】 
 Dukkha(苦)を縁としてSaddhā(信)があり、Saddhā(信)を縁としてPāmojja(悦)があり、Pāmojja(悦)を縁としてPīti(喜)があり、Pīti(喜)を縁としてPassadhi(軽安)があり、Passadhi(軽安)を縁としてSukha(楽)があり、Sukha(楽)を縁としてSamādhi(定)があり、Samādhi(定)を縁としてYathābhūtañāṇadassana(如実智見)があり、Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)を縁としてNibbidā(厭離)があり、Nibbidā(厭離)を縁としてVirāga(離貪)があり、Virāga(離貪)を縁としてVimutti(解脱)があり、Vimutti(解脱)を縁としてĀsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)があります。

 

‘‘Iti kho, bhikkhave, avijjūpanisā saṅkhārā, saṅkhārūpanisaṃ viññāṇaṃ, viññāṇūpanisaṃ nāmarūpaṃ, nāmarūpūpanisaṃ saḷāyatanaṃ, saḷāyatanūpaniso phasso, phassūpanisā vedanā, vedanūpanisā taṇhā, taṇhūpanisaṃ upādānaṃ, upādānūpaniso bhavo, bhavūpanisā jāti, jātūpanisaṃ dukkhaṃ, dukkhūpanisā saddhā, saddhūpanisaṃ pāmojjaṃ, pāmojjūpanisā pīti, pītūpanisā passaddhi, passaddhūpanisaṃ sukhaṃ, sukhūpaniso samādhi, samādhūpanisaṃ yathābhūtañāṇadassanaṃ, yathābhūtañāṇadassanūpanisā nibbidā, nibbidūpaniso virāgo, virāgūpanisā vimutti, vimuttūpanisaṃ khayeñāṇaṃ.


(雨水の喩え)
 比丘たちよ、例えば、山頂で大雨が大水滴の雨が降ると、その水は、低きに従って流れ、山の峡谷・渓谷・渓流を満たします。山の峡谷・渓谷・渓流は満ちて、もろもろの小池を満たします。もろもろの小池は満ちてもろもろの大地を満たします。もろもろの大地は満ちてもろもろの小川を満たします。もろもろの小川は満ちて、もろもろの大河を満たします。もろもろの大河は満ちて、もろもろの大海を満たします。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、Avijjā(無明)を縁としてSaṅkhāra(行)があり、Saṅkhāra(行)を縁としてViññāṇa(識)があり、Viññāṇa(識)を縁としてNāmarūpa(名色)があり、Nāmarūpa(名色)を縁としてSaḷāyatana(六処)があり、Saḷāyatana(六処)を縁としてPhassa(触)があり、Phassa(触)を縁としてVedanā(受)があり、Vedanā(受)を縁としてTaṇhā(渇愛)があり、Taṇhā(渇愛)を縁としてUpādāna(取)があり、Upādāna(取)を縁としてBhava(有)があり、Bhava(有)を縁としてJāti(生)があり、Jāti(生)を縁としてDukkha(苦)があります。
 Dukkha(苦)を縁としてSaddhā(信)があり、Saddhā(信)を縁としてPāmojja(悦)があり、Pāmojja(悦)を縁としてPīti(喜)があり、Pīti(喜)を縁としてPassadhi(軽安)があり、Passadhi(軽安)を縁としてSukha(楽)があり、Sukha(楽)を縁としてSamādhi(定)があり、Samādhi(定)を縁としてYathābhūtañāṇadassana(如実智見)があり、Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)を縁としてNibbidā(厭離)があり、Nibbidā(厭離)を縁としてVirāga(離貪)があり、Virāga(離貪)を縁としてVimutti(解脱)があり、Vimutti(解脱)を縁としてĀsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)があります」と。

 

‘‘Seyyathāpi, bhikkhave, uparipabbate thullaphusitake deve vassante taṃ udakaṃ yathāninnaṃ pavattamānaṃ pabbatakandarapadarasākhā paripūreti. Pabbatakandarapadarasākhāparipūrā kusobbhe [kussubbhe (sī. syā. kaṃ.), kusubbhe (pī.) ṇvādi 129 suttaṃ oloketabbaṃ] paripūrenti. Kusobbhā paripūrā mahāsobbhe paripūrenti. Mahāsobbhā paripūrā kunnadiyo paripūrenti. Kunnadiyo paripūrā mahānadiyo paripūrenti. Mahānadiyo paripūrā mahāsamuddaṃ paripūrenti.

‘‘Evameva kho, bhikkhave, avijjūpanisā saṅkhārā, saṅkhārūpanisaṃ viññāṇaṃ, viññāṇūpanisaṃ nāmarūpaṃ, nāmarūpūpanisaṃ saḷāyatanaṃ, saḷāyatanūpaniso phasso, phassūpanisā vedanā, vedanūpanisā taṇhā, taṇhūpanisaṃ upādānaṃ, upādānūpaniso bhavo, bhavūpanisā jāti, jātūpanisaṃ dukkhaṃ, dukkhūpanisā saddhā, saddhūpanisaṃ pāmojjaṃ, pāmojjūpanisā pīti, pītūpanisā passaddhi, passaddhūpanisaṃ sukhaṃ, sukhūpaniso samādhi, samādhūpanisaṃ yathābhūtañāṇadassanaṃ, yathābhūtañāṇadassanūpanisā nibbidā, nibbidūpaniso virāgo, virāgūpanisā vimutti, vimuttūpanisaṃ khayeñāṇa’’nti. Tatiyaṃ.

 

http://tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul0.xml

 

(註)

 ※Passato。見ているものに(Passantassa)。
慧をそなえている人は、具眼者(Cakkhumā)のように、眼によって、もろもろの色を、慧によってもろもろの開かれた法を観る。
ここでは、観ることは、Paññācakkhu(慧眼)によって観ることが意趣されており、肉眼によってではない。
※ Āsavakkhaya-ñāṇa(漏尽智)=Paccavekkhaṇañāṇa(省察智)。
阿羅漢果が生じ、解脱したのに生じるÑāṇa(智)。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2013/10/24/230312
※sa-upanisaṃ <根拠あるもの(Sakāraṇa)、縁のあるもの(sappaccaya)>。Upanisaは、Paccaya(縁)に同じ。『Phala(果)がここに近座(upanisīdati)から、縁由(Upanisā)であり、根拠(Sakāraṇa)である』と語源解釈される。
Cf.Saddanīti. II.385
※Vimutti.「阿羅漢果の解脱(Arahattaphalavimutti)。なぜなら、解脱は、Paccavekkhaṇañāṇa(省察智)のUpanissaya paccaya(親依縁:Paṭṭhāna(二十四縁起の1つ))によって、縁となるからである」
※Virāga(離貪)。(Magga/Phalaの)Magga(道)ということ。なぜなら、それは、諸煩悩を離貪させ(Phala 果)、捨てて生じるものであるから、「離貪」と言われる。
※Nibbidā(厭離)。Nibbidā-ñāṇa(厭離智)のこと。これによって、Balavavipassanā(強いVipassanā)を示す。
Balavavipassanā=Bhayatūpaṭṭhāne ñāṇa(畏怖現起智)、Ādīnavānupassane ñāṇa(危機随観智)、Muñcitukamyatā ñāṇa(脱欲智)、 Saṅkhārupekkhā ñāṇa(行捨智)の4智。
※Yathābhūtañāṇadassana(如実智見)。「自性のとおり知ること」(Yathābhūtañāṇa)と称される見(Dassana)。これによって、Taruṇa-vipassanā(幼いVipassanā)を示す。なぜなら、Taruṇa-vipassanāは、Balavavipassanāの縁になるからである。
Taruṇa-vipassanā=Saṅkhāraparicchede ñāṇa(行差別智)、Kaṅkhāvitaraṇe ñāṇa(度疑智)、 Sammasane ñāṇa(思惟智)、Maggāmagge ñāṇa(道非道智)の4智。
※Samādhi(定)。Pādaka-jjhāna-samādhi(基礎禅の定)。Taruṇa-vipassanā(幼いVipassanā)の縁となる。
※Sukha(楽)。Appanā samādhi(安止定)による前分の楽(Pubbabhāgasukha)。
※Passadhi(軽安)。Darathapaṭippassaddhi(不安の止息)。Appanā samādhiによる前分の楽(Pubbabhāgasukha)の縁となる。
※Pīti(喜)。Balavapīti(強い喜び)。Darathapaṭippassaddhi(不安の止息)の縁となる。
※Pāmojja(悦)。Dubbalapīti(弱い喜び)。Balavapīti(強い喜び)の縁となる。
※Saddhā(信)。Aparāparaṃ uppajjanasaddhā(しばしば起こる信)。Dubbalapīti(弱い喜び)の縁となる。
※Dukkha(苦)。Vaṭṭadukkha(輪転の苦)。Aparāparaṃ uppajjanasaddhā(しばしば起こる信)の縁となる。
※Jāti(生)。あるいは、「生まれ」。変化のある(savikārā)蘊の生まれ(khandhajāti)。Vaṭṭadukkha(輪転の苦)の縁となる。

Mahāsamudda:大海。

※最後の雨水の喩えのおいて、「解脱」は、「海洋」(Sāgara)である。

 

(註釈の原文)

Saṃyuttanikāye Nidānavagga-aṭṭhakathā 1. Nidānasaṃyuttaṃ

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302a.att0.xml

 

参考&引用:

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I (パーリ仏典 第3期3)

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I (パーリ仏典 第3期3)