無我論(1)―ブッダが否定した我(Atta)とは?
ブッダの言葉
279.
‘‘Sabbe dhammā anattā’’ti, yadā paññāya passati;
Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.
ダンマパダ 279
あらゆる法は、無我なり(Sabbe dhammā anattā)、と 智慧を持って観るときに
かれは苦を厭い離れる
これ清浄にいたる道なり
片山一良『ダンマパダ全詩解説』p352
しかし、ここで否定される我(Atta)とはなんなのでしょうか?
我の定義とはなんなのでしょうか。
それを知るには経典に残されたブッダご自身の言葉を拝聴する必要がありそうです。
はじめに結論を言えば、
ブッダが否定された我(Atta)とは、常住でコントロールを行う我のことです。
無我相経―Anattalakkhaṇa-sutta
Saṃyutta Nikāya 3.Khandha-vagga 22.Khandha-saṃyutta 6. Upayavaggo
相応部経典 3. 蘊篇 22. 蘊相応
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0303m.mul0.xml
‘‘Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. Rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa, nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteya, labbhetha ca rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti. Yasmā ca kho, bhikkhave, rūpaṃ anattā, tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’’’ti.
「比丘たちよ。色(肉体)は無我である。もし色が我であるならば、色が病にかかることはないし、色に対して、『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることができるであろう。しかし、色は無我であるから色は病にかかり、『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることができないのである。」
(以下、受、想、行、識についても同様)
‘‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti?
‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ – ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
‘‘No hetaṃ, bhante’’. ‘
「比丘たちよ。色は常であるか、無常であるか」
「尊師よ。無常であります。」
「無常なるものは苦であるか、楽であるか。」
「尊師よ。苦であります。」
「無常であり、苦であり、壊れるものを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と見るのは正しいか。」
「尊師よ。それは正しくありません。」
(以下、受、想、行、識についても同様)
‘‘Tasmātiha, bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ atītānāgatapaccuppannaṃ ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā, sabbaṃ rūpaṃ – ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ. Yā kāci vedanā atītānāgatapaccuppannā ajjhattā vā bahiddhā vā…pe… yā dūre santike vā, sabbā vedanā – ‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
「比丘たちよ。それゆえ、色であるものは何であれ、過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、そのすべての色を『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない(‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’)』とあるがままに正しい智慧によって見るべきである。」
(以下、受、想、行、識についても同様)
※mama:pron.[ahaṃ の dat.,gen.] 私の,私のもの,我所.-y-idaṃ これは私のもの,我執.
訳はこちらから引用させていただきました。:
ブッダが説かれた「もし色が我であるならば、色が病にかかることはないし、色に対して、『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることができるであろう。(Rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa, nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteya, labbhetha ca rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti. )」。
これは理解するのが、なかなか難しいロジックです。
「もし、我(Atta)というものがあれば」と仮定されて、ブッダはお話されているわけです。
そして、「我というものがあれば、それはコントロールできる存在だ」と。
これがブッダの我の定義です。
しかし、実際には、我々は、病気になりたくないと思っていても、勝手に病気になります。死にたくないと思っていても、死んでしまうわけです。
Uncontrollable。コントロールができないということになります。
コントロールができないのだから、我(Atta)がない。
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ – ‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「無常であり、苦であり、壊れるものを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と見るのは正しいか。」
「尊師よ。それは正しくありません。」
無常であるから、苦(例えば、老病死が生じる)。
苦であり、壊れる存在であるから、無我。(我があるなら、壊れることをコントロールできる)
無常だから、苦。苦だから、無我。
難解ですが、そういう論理になっているようです。