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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

輪廻のなかで流された血―三十人経(Tiṃsamatta-sutta)

Saṃyutta-Nikāya 相応部経典

 以前は、「輪廻の中で流された涙は四大海の水より多い」という相応部の「涙経」を写経した。

 

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

 この三十人経は、「輪廻の中で頭を切断されて流された血は四大海の水より多い」

という経典である。

 涙経(Assusutta)が輪廻の中のCetasika-dukkha(精神的苦)についてフォーカスしているとすれば、この三十人経(Tiṃsamatta-sutta)は、Kāyika-dukkha(肉体的苦)

について語っていると言えると思う。

 結論として、「一切の行について、厭うことが適切です。解脱することが適切である(bhikkhave, alameva sabbasaṅkhāresu nibbindituṃ alaṃ virajjituṃ alaṃ vimuccitu’’nti. )」ということが語られる。

 

三十人経

相応部経典 因縁篇 4.無始相応 2章 3

Saṃyutta-Nikāya Nidānavaggapāḷi 4. Anamataggasaṃyuttaṃ 2.3

 

 このように私は聞いたー

 あるとき、世尊は、ラーガジャガハに近い竹林のカランダカニヴァーパに住んでおられた。
 そのとき、三十人のパーヴァー出身の比丘がいた。そのすべては森林住者であり、すべては常乞食者(じょうこつじきしゃ)であり、すべては糞掃衣者(ふんぞうえしゃ)であり、すべては三衣者(さんえしゃ)であり、すべては、束縛のある者であった。かれらは、世尊がおられるところへ近づいていった。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。
 そこで、世尊はこのように思われた。<この三十人のパーヴァー出身の比丘は、すべては森林住者であり、すべては常乞食者(じょうこつじきしゃ)であり、すべては糞掃衣者(ふんぞうえしゃ)であり、すべては三衣者(さんえしゃ)であり、すべては、束縛のある者である。私から、この者たちに、この座で、執着せず、もろもろの煩悩から、その心が解脱するように、法を説いてはどうであろうか>と。
 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ」と。
 「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。
 世尊は次のように言われた。
 「比丘たちよ、この輪廻は無始のものです。無明に覆われ、渇愛に縛られ(avijjānīvaraṇānaṃ sattānaṃ taṇhāsaṃyojanānaṃ)、流転し、輪廻している(sandhāvataṃ saṃsarataṃ)生けるものたちに、前際は認められません。
 比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、この長い間、流転し、輪廻し、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血(lohitaṃ)と四大海の水とではどちらが多いかということです」と。
 「尊師よ、私どもは世尊が説示されました法のとおりに理解いたします。尊師よ、この長い間、流転し、輪廻し、頭を切られてきた私どもに流れ、漏れ出た血こそ多く、四大海の水の比ではありません」と。
 「比丘たちよ、そのとおりです。そのとおりです。比丘たちよ、そのとおりです。そなたたちは、私が説示した法をその通りに理解しています。比丘たちよ、この長い間、流転し、輪廻し、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血こそ多く、四大海の水の比ではありません。

 比丘たちよ、長い間、牛(go)に生まれ、牛として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、水牛(mahiṃsa)に生まれ、水牛として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、牡牛(おうし)(urabbha)に生まれ、牡牛として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、山羊(aja)に生まれ、山羊として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、鹿(miga)に生まれ、鹿として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、鶏(kukkuṭa)に生まれ、鶏として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、豚(sūkarā)に生まれ、豚として、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、村を破壊する盗賊(corā gāmaghātā)として捕まり、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、追い剥ぎをする盗賊(corā pāripanthikā)として捕まり、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。
 比丘たちよ、長い間、他の女性を犯す盗賊(corā pāradārikā)として捕まり、頭を切られてきたそなたたちに流れ、漏れ出た血は、四大海の水の比ではありません。

 それはなぜか。比丘たちよ、この輪廻は無始のものだからです。無明に覆われ、渇愛に縛られ、流転し、輪廻している生けるものたちに、前際は認められません。
 比丘たちよ、このように長い間、そなたたちは、苦を受け、苦痛を受け、災厄を受け、墓場が増大しています。
 比丘たちよ、そうである限り、一切の行について、厭うことが適切です。解脱することが適切です」と。
 このように、世尊は言われた。かれら比丘は、喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

 なお、この解答が語られているとき、三十人のパーヴァーに住む比丘たちの心は、執着せず、もろもろの煩悩から解脱した、と。

 

(片山一良『相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II (パーリ仏典 第3期4)』 大蔵出版 p.205より)


3. Tiṃsamattasuttaṃ
136. Rājagahe viharati veḷuvane. Atha kho tiṃsamattā pāveyyakā [pāṭheyyakā (katthaci) vinayapiṭake mahāvagge kathinakkhandhakepi] bhikkhū sabbe āraññikā sabbe piṇḍapātikā sabbe paṃsukūlikā sabbe tecīvarikā sabbe sasaṃyojanā yena bhagavā tenupasaṅkamiṃsu; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdiṃsu.

Atha kho bhagavato etadahosi – ‘‘ime kho tiṃsamattā pāveyyakā bhikkhū sabbe āraññikā sabbe piṇḍapātikā sabbe paṃsukūlikā sabbe tecīvarikā sabbe sasaṃyojanā. Yaṃnūnāhaṃ imesaṃ tathā dhammaṃ deseyyaṃ yathā nesaṃ imasmiṃyeva āsane anupādāya āsavehi cittāni vimucceyyu’’nti. Atha kho bhagavā bhikkhū āmantesi – ‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca –
‘‘Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro. Pubbā koṭi na paññāyati avijjānīvaraṇānaṃ sattānaṃ taṇhāsaṃyojanānaṃ sandhāvataṃ saṃsarataṃ. Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, katamaṃ nu kho bahutaraṃ, yaṃ vā vo iminā dīghena addhunā sandhāvataṃ saṃsarataṃ sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ, yaṃ vā catūsu mahāsamuddesu udaka’’nti? ‘‘Yathā kho mayaṃ, bhante, bhagavatā dhammaṃ desitaṃ ājānāma, etadeva, bhante, bahutaraṃ, yaṃ no iminā dīghena addhunā sandhāvataṃ saṃsarataṃ sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ, na tveva catūsu mahāsamuddesu udaka’’nti.
‘‘Sādhu sādhu, bhikkhave, sādhu kho me tumhe, bhikkhave, evaṃ dhammaṃ desitaṃ ājānātha. Etadeva, bhikkhave, bahutaraṃ, yaṃ vo iminā dīghena addhunā sandhāvataṃ saṃsarataṃ sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ, na tveva catūsu mahāsamuddesu udakaṃ. Dīgharattaṃ vo, bhikkhave, gunnaṃ sataṃ gobhūtānaṃ sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ, na tveva catūsu mahāsamuddesu udakaṃ. Dīgharattaṃ vo, bhikkhave, mahiṃsānaṃ [mahisānaṃ (sī. pī.)] sataṃ mahiṃsabhūtānaṃ sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ …pe… dīgharattaṃ vo, bhikkhave, urabbhānaṃ sataṃ urabbhabhūtānaṃ…pe… ajānaṃ sataṃ ajabhūtānaṃ… migānaṃ sataṃ migabhūtānaṃ… kukkuṭānaṃ sataṃ kukkuṭabhūtānaṃ… sūkarānaṃ sataṃ sūkarabhūtānaṃ… dīgharattaṃ vo, bhikkhave, corā gāmaghātāti gahetvā sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ. Dīgharattaṃ vo,
bhikkhave, corā pāripanthikāti gahetvā sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ. Dīgharattaṃ vo,
bhikkhave, corā pāradārikāti gahetvā sīsacchinnānaṃ lohitaṃ passannaṃ paggharitaṃ, na tveva catūsu mahāsamuddesu udakaṃ.


Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro. Pubbā koṭi na paññāyati avijjānīvaraṇānaṃ sattānaṃ taṇhāsaṃyojanānaṃ sandhāvataṃ saṃsarataṃ. Evaṃ dīgharattaṃ vo, bhikkhave, dukkhaṃ paccanubhūtaṃ tibbaṃ paccanubhūtaṃ byasanaṃ paccanubhūtaṃ, kaṭasī [kaṭasi (sī. pī. ka.) kaṭā chavā sayanti etthāti kaṭasī] vaḍḍhitā. Yāvañcidaṃ, bhikkhave, alameva sabbasaṅkhāresu nibbindituṃ alaṃ virajjituṃ alaṃ vimuccitu’’nti.


‘‘Idamavoca bhagavā. Attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti. Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne tiṃsamattānaṃ pāveyyakānaṃ bhikkhūnaṃ anupādāya āsavehi cittāni vimucciṃsū’’ti. Tatiyaṃ.

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul3.xml

 

 最近、「Dukkha(苦)とはなんぞや?」ということを追求するのが、大切なのではないだろうかと個人的に思っている。

 四聖諦の一番最初が苦諦で、そこから、苦の原因、苦の滅、苦滅の道という風に展開していく。

 この四聖諦というのは、「仏道のすべて」と言っても過言ではない。

 そして、Dukkhaというものを明確にしないと「なぜ解脱することが必要なのか?なぜNibbānaに至ることが必要なのか?」ということが明確に出てこないと思っている。

 Dukkhaというものを明確にしないと、Vimutti(解脱)、Nibbāna(涅槃)への必然性というのが見えてこないのではないかと。

 だから、Dukkhaを直視するのは、苦しいし、苦痛だけど、あえて苦痛だが、Dukkhaについて向き合っていくということが重要ではないかというのが、最近の個人的なテーマである。

 この相応部経典・因縁篇・無始相応には基本的に輪廻の無限さと輪廻の苦が語られているのだが、この三十人経(Tiṃsamatta-sutta)でも、読んでいると「うわー」という感覚になると思う。

 この無限の輪廻の苦に対しての叫びたくなるような感覚、これがブッダの教えでいうところのSaṅkhārā dukkhā(諸行苦)の感覚に近いんじゃないかと思っている。

 叫びたくなるような絶望的な輪廻の苦を覚知することで、「なんとかしてこの輪廻から脱出したいという気持ち」=「Nibbidā(厭離)」が生じ、そのNibbidāから解脱への縁起が展開する。

  Dukkhaの覚知→Nibbidā(厭離)という流れが重要だと思う。

 あと、この経典について、このブッダの輪廻の無始さと苦についての説示だけで、三十人の比丘たちが解脱しているということが注目に値すると思う。

 ブッダの説法だけで、解脱するということは、かれらもVipañcitaññū(ウィパンチタンニュ 広説智者)なのだと思う。

 

 

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相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II (パーリ仏典 第3期4)

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