仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

「自灯明(Attadīpā)」の本当の意味。

 ブッダの言葉である「自灯明(Attadīpā)」について。

 結論から言えば、「自灯明の実践=「Satipaṭṭhāna(サティパッターナ、四念処)の実践」である。

 

それゆえに、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. 

 

 長部経典16「大般涅槃経Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章の一般に「自灯明・法灯明」とされている部分である。

 これは、非常に誤解されている部分であって、

 「自分を拠り所にしろいうことだから、自分で考えて、自分の直感に従って生きることではないか」

 「自分に好きに生きろということではないか」

 「自分を信じて生きろということではないか」

 などど、一歩間違えれば、自分のエゴ肯定、欲望肯定と仏説とは、真逆の「解釈」をされることがある。

 しかし、このブッダの言葉には「では、どのように自己を拠り所とするのか」という続きが存在しており、その続きには、厳密に自灯明・法灯明とは何かが定義されている。それを読むと本来ブッダが言いたかったのは、「自分を信じて生きろ」風の巷の解釈とは全く別のものであることがわかるはずだ。

 では、問題となるその続き。

 では、アーナンダよ、どのように比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのか

 ここに比丘は、身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

 もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

 心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

 もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

 このように、アーナンダよ、比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのです。

 アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にいるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は――。

長部経典16「大般涅槃経Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章

(片山一良訳、後半は中村元訳)

 (パーリ語原文)

 Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo?

 Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.

 Vedanāsu…pe…

 citte…pe…

 dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Evaṃ kho, ānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo .

 Ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā’’ti.

http://www.palikanon.com/pali/digha_mula/digha16.htm 165の後半 1「…pe…」のところは省略されている)

 

 この大般涅槃経の続きを読むと、

 「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

 とは、

 「身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」

 「もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」

 「心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」

 「もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」

 であることがわかる。

 パーリ語原文を読むと、「kāye kāyānupassī…Vedanāsu…citte…pe…dhammesu dhammānupassī」とある。

 つまり、

 ブッダの「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

 とは、「Kāyānupassanā(身随念)、Vedanānupassanā(受随念)、Cittānupassanā(心随念)、Dhammānupassanā(法随念)の四念処(Satipaṭṭhāna)を修しなさい」ということなのだ。

 要するに、「自灯明・法灯明」の本当の意味は、「四念処(Satipaṭṭhāna)を修せよ」ということである。

 では、なぜ「自灯明(attadīpā)」「法灯明(dhammadīpā )」となぜ言葉を変えたのか?

 スマナサーラ長老によれば、「たとえていえば、植物性のタンパク質を取りなさい。豆腐を食べなさい、というような意味」だという。

 

たとえば、「この洞窟を調べなさい」(自灯明)と言われて調べたところで、宝物(真理)を発見する。「宝物を探しなさい。洞窟の中にあります」(法灯明)と言われたならば、宝物を(真理)を意識して洞窟を調べてそれを発見する。

アルボムッレ・スマナサーラ長老『自立への道』(サンガ)p.124

 

参考:

「インドと釈尊原始仏教関連】のトピック」http://buddhism.sns.fc2.com/exec/community/forum/view/42429/?sid=15bdc4793b7abbf73238ce0bff3eaba7

「『大般涅槃経』に記された「正法」の見分け方」

http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081225/p1

 

関連記事:

唯一の解脱法:Satipaṭṭhāna -  http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/05/11/222742