仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

「ブッダは輪廻転生について無記の態度をとった」説は本当か?(書きかけ 11月26日更新)

 輪廻転生について、ブッダは「無記」の態度をとったという話がありますが本当でしょうか?

 

 結論からいうと、これは、経典解釈としては、誤りのようです。

 ブッダが、無記(Avyākata)の態度をとったのは、渇愛を滅した阿羅漢の死後について。

 渇愛のある衆生は、死後輪廻することが明言されている。

 ということが相応部経典無記相応から読み取れます。

 詳しくは、東洋大学 森章二先生の論文に載っています。

 

 

森 章司「死後・輪廻はあるか---「無記」「十二縁起」「無我」の再考---」(『東洋学論叢』第30号 東洋大学文学部 2005年3月)

http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

http://www.sakya-muni.jp/fieldwork/3-1212/

 

 では、なぜ「ブッダは輪廻転生について無記の態度をとった」という説が出てきたというと、原因は五世紀の註釈家ブッダゴーサのʻtathāgataʼ(如来)というの語の解釈にあります。

 

十無記

 

 ‘sassato loko’tipi, ‘asassato loko’tipi, ‘antavā loko’tipi, ‘anantavā loko’tipi, ‘taṃ jīvaṃ taṃ sarīra’ntipi, ‘aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīra’ntipi, ‘hoti tathāgato paraṃ maraṇā’tipi, ‘na hoti tathāgato paraṃ maraṇā’tipi, ‘hoti ca na ca hoti tathāgato paraṃ maraṇā’tipi, ‘neva hoti na na hoti tathāgato paraṃ maraṇā’tipi –

 

『世界は常住であろうか』

『世界は無常であろうか』

『世界は有限であろうか』

『世界は無限であろうか』

『霊魂と身体は同一であろうか』

『霊魂と身体は別異であろうか』

如来は死後に存在するのであろうか』

如来は死後に存在しないのであろうか』

如来は死後に存在し、かつ存在しないのであろうか』

如来は死後に存在するのでもなく、かつ存在しないのでもないのであろうか』

という〔これらは〕。

 

tāni me bhagavā na byākaroti.

世尊は私へ、これらについて解答されていない。

 

中部経典63 「小マールキヤ経 Cūḷamālukya-sutta」

http://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c05.files/sheet001.htm

 

 『如来は死後に存在するのであろうか』… 以下について、ブッダは「無記」の態度を取られています。

 これは、渇愛を滅した阿羅漢である「如来 tathāgato」についての無記ですが、このtathāgatoをブッダゴーサが「有情」と解釈したことが、「ブッダは輪廻転生について無記の態度をとった」説の誤解の原因になっているようです。

 しかし、森先生の論文によると、tathāgatoを「有情」と解釈するのは、ブッダではなく、異教徒の教義においてなのです。

 経典のブッダの言葉にそって解釈すれば、「tathāgato=如来」となります。

 

スッタニパータ第五章 学生ウバシーヴァの質問 ―解脱者の死後の無記

 スッタニパータの第五章でも、阿羅漢、解脱者の死後についての無記が触れられています。

 「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人」(‘‘Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, (upasīvāti bhagavā) Ākiñcaññaṃ nissito hitvā maññaṃ;)

 貪りを離れて、解脱しているので、これは、煩悩を滅した阿羅漢のことです。

 「そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。(Evaṃ munī nāmakāyā vimutto, atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ)」

 

 「聖者=munī」です。上記の文脈を踏まえると、

 「聖者」=

 「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人」=

 「渇愛を滅した阿羅漢」

 となります。

 ここでも、語られているのは、渇愛を滅した阿羅漢の死後の無記です。

 衆生一般の死後の無記については書かれていません。

 

Suttanipātapāḷi 5. Pārāyanavaggo 6. Upasīvamāṇavapucchā

スッタニパータ 第五章 彼岸にいたる道の章 七、学生ウバシーヴァの質問

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0505m.mul4.xml

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html

 

1077.
‘‘Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, (iccāyasmā upasīvo)
Ākiñcaññaṃ nissito hitvā maññaṃ;
Saññāvimokkhe parame vimutto [dhimutto (ka.)], tiṭṭhe nu so tattha anānuyāyī’’ [anānuvāyī (syā. ka.)].

1078.
‘‘Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, (upasīvāti bhagavā)
Ākiñcaññaṃ nissito hitvā maññaṃ;
Saññāvimokkhe parame vimutto, tiṭṭheyya so tattha anānuyāyī’’.

1079.
‘‘Tiṭṭhe ce so tattha anānuyāyī, pūgampi vassānaṃ samantacakkhu;
Tattheva so sītisiyā vimutto, cavetha viññāṇaṃ tathāvidhassa’’.

1080.
‘‘Accī yathā vātavegena khittā [khittaṃ (syā.), khitto (pī.)], (upasīvāti bhagavā)
Atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ;
Evaṃ munī nāmakāyā vimutto, atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ’’.

1081.
‘‘Atthaṅgato so uda vā so natthi, udāhu ve sassatiyā arogo;
Taṃ me munī sādhu viyākarohi, tathā hi te vidito esa dhammo’’.

1082.
‘‘Atthaṅgatassa na pamāṇamatthi, (upasīvāti bhagavā)
Yena naṃ vajjuṃ taṃ tassa natthi;
Sabbesu dhammesu samohatesu, samūhatā vādapathāpi sabbe’’ti.

 

七、学生ウバシーヴァの質問

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

 

……

 

無記相応 - Wikipedia