仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

聖者侮辱(聖者誹謗)について ― スマナサーラ長老の法話より

Buddhābhivādanā 礼拝文


Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。


Bhājemi Pūjā 廻向偈


Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•旧マハーカルナー法友会PDF。
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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印象に残ったのは、

・マスコミが誰かを侮辱するウワサを流すと皆がそれを信じてしまう。人々は不思議なことに噂話だけは信じてしまう。根拠ない噂を信じて、証拠に基づいた話は疑う弱みがある。聖者を侮辱する噂を流すと自分が地獄に落ちるだけではなく、多くの人々の心を汚し覚りの道を閉ざす。

・相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。聖者は自己宣伝しない。自分の精神的な境地がばれないように生活している。だから、結論は口を謹んでください、ということ。

 というところです。