聖者侮辱(聖者誹謗)について ― スマナサーラ長老の法話より
Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•旧マハーカルナー法友会PDF。
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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#jtba 14:00からのスマナサーラ長老ゴータミー精舎法話と瞑想の会、質疑応答の部を控え目に実況中継します。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:(聖者非難について)聖者は覚りに達した方々 四沙門果の人。非難が成り立たない。全ての生命の先輩、一切の生命を慈しんで心配している人。人格成長するための善友。聖者は人を問題なく導くことできる。そういう方々を侮辱するのは絶対にやってはならないこと。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:人が尊いか卑しいかというのは心にある徳で決まる。社会的な地位は関係ない。覚った人は一部であれ煩悩がなくなってる。確実に尊い方々。非難侮辱するのは言語道断。誰であれ侮辱してはいけない。我が子でも、犬猫でも侮辱してはならない。だったら聖者非難は話にならない。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:マスコミが誰かを侮辱するウワサを流すと皆がそれを信じてしまう。人々は不思議なことに噂話だけは信じてしまう。根拠ない噂を信じて、証拠に基づいた話は疑う弱みがある。聖者を侮辱する噂を流すと自分が地獄に落ちるだけではなく、多くの人々の心を汚し覚りの道を閉ざす。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:教えてくれる人をバカにするんだから、悟れないのは当然。聖者を侮辱した場合は、本人に謝らないといけない。聖者侮辱は相当危険。本人に会えるかという問題ある。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:サンガのなかでも、喧嘩して侮辱的な事を言ったら、まず自分が侮辱した人の所に行って謝る。グズグズしている場合は、サンガが謝りなさいと命令する。サンガの命令には誰でも従う。それで従わないと出家の資格のなくなる。本人が一人で謝りにくい場合は同行者つけてあげる。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:それでも勇気が出ないなら、同行したサンガの代表者が口添えする。そこまで助けるのは、侮辱することが精神的な成長に妨げになるから。それで、相手が懺悔した人を許してあげないならば、それも戒律違反とする。そのような懺悔の複雑なシステムがある。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:社会制度として複雑なのではなく、精神的な成長を妨げる危険をなくすために複雑になっている。生命を侮辱してはならない、ということは覚えておくこと。聖者を侮辱したら本人に謝る。本人が亡くなっているなら、想像を絶する損。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:日本の謝罪文化のようにいい加減なものではない。相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。聖者は自己宣伝しない。自分の精神的な境地がばれないように生活している。だから、結論は口を謹んでください、ということ。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:業の説明で、人殺しをしようと思って、顔を見ずに誰かを殺す。それが後から自分の父母だとわかった場合、それは親殺しの重罪になる。その場合は被害から罪が決まる。人だと思って動物殺したくなる場合は殺人ではない。ただ人だと思って殺した意欲の罪もプラスされるが。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:聖者侮辱の罪が大きくなるわけ。聖者は侮辱されたと思わない。それで余計に大きな罪になる。親の場合も同じく。親は侮辱されても子供を憐れむから。懺悔について。輪廻のなかで皆が同じく膨大な罪を犯している。懺悔する事で傲慢がなくなる。心が柔軟になる。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:懺悔によって成長のチャンスを得る。悪業は消えないが、顔を出しにくくなる。一切生命に慈悲の気持ち育てることで、悪業が顔出すことはかなりなくなる。生命を慈しむ人には、被害を受けた人も攻撃する気持ちがなくなる。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:自分の妄想の罪も、慈悲の瞑想をして心を育てればチャラになります。聖者侮辱は危険だが、仏教では、批判はタブーではない。合法的に人の過ちを訴える事はできる。噂を流すのは罪。出家同士でも戒律違反はルールに従って訴えられる。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:人間は言葉を制御した方がいい。しかし合法的なやり方で過ちをただしてあげないといけない。聖者侮辱は断言的にいけない。一人勝手に侮辱するなら一人の罪だが、噂を流すのが大きな罪。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
#jtba スマナサーラ:大乗仏教という存在も、考えてみれば罪深い。人々の覚りの道を閉ざしたのだから。と阿羅漢の覚りは不完全と言ってまるごと仏教を侮辱してしまった。覚りに疑いを持ったのだから、預流果にさえ達してないのは明らか。ゴチャゴチャ妄想して道を壊してしまったのだから‥‥。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2011年7月24日
印象に残ったのは、
・マスコミが誰かを侮辱するウワサを流すと皆がそれを信じてしまう。人々は不思議なことに噂話だけは信じてしまう。根拠ない噂を信じて、証拠に基づいた話は疑う弱みがある。聖者を侮辱する噂を流すと自分が地獄に落ちるだけではなく、多くの人々の心を汚し覚りの道を閉ざす。
・相手が聖者かどうか知らなかった場合。業の法則ではそんな言い訳は通じない。聖者は自己宣伝しない。自分の精神的な境地がばれないように生活している。だから、結論は口を謹んでください、ということ。
というところです。