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仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

世界の守護者:HiriとOtappa ―Guardians of the World―

Aṅguttara-Nikāya 増支部経典

Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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youtu.be

 原始仏教トーク(LIVE)第20回:「恥じよ!畏れよ! ~ 健全な社会実現へのお釈迦様の至言 ~」』で取り上げられた経典が印象に残ったので、調べてみました。

(上の動画はPodcast版)

 

○Hiri ヒリ(慚 ざん)…不善なことを行うことを「こんなことを行うのは、恥ずかしいではないか」と恥じる心。

○Otappa オタッパ(愧 き)…不善なことを行うことを「こんな行いをして、どういうKamma(業)の結果が起こるか恐ろしい」と畏れる心。

 

両者とも、浄心所(Sobhana-Cetasika)である。

 

Aṅguttara-Nikāya Dukanipātapāḷi 1. Paṭhamapaṇṇāsakaṃ 1. Kammakaraṇavaggo

増支部経典 二集 1.初の50 1.科刑罰品

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0402m1.mul0.xml

 (訳は、マハーカルナー禅師訳 『原始仏教トーク第20回:「恥じよ!畏れよ! ~ 健全な社会実現へのお釈迦様の至言 ~」』より)

 

9. Cariya-sutta

 

Dveme , bhikkhave, dhammā sukkā lokaṃ pālenti.

比丘たちよ、世界を守護する穢れなきふたつの法がある。

 

Katame dve? Hirī ca ottappañca.

2つとは何であるか?HiriとOtappa、恥じる心と畏れる心である。

 

Ime kho, bhikkhave, dve sukkā dhammā lokaṃ na pāleyyuṃ, nayidha paññāyetha mātāti vā mātucchāti vā mātulānīti vā ācariyabhariyāti vā garūnaṃ dārāti vā.

Sambhedaṃ loko agamissa, yathā ajeḷakā kukkuṭasūkarā soṇasiṅgālā [soṇasigālā (sī. syā. kaṃ. pī.)].

もし穢れなきこれら2つの法が失われ、世界を守護するものがなくなれば、どうなるであろうか。

「彼女は私のお母さんだ」「彼女は私のおばさんだ」「彼女は私のおじさんの奥さんだ」「彼女は私の先生の奥さんだ」「彼女は私の尊敬する人の奥さんだ」

という認識は無視されて、この世界は乱交状態になるであろう。

山羊と羊が交わり、鶏と豚が交わり、犬とジャッカルが交わるように、人々は恥も恐れもなく、欲望のままに誰とでも交わることになるであろう。

 

Yasmā ca kho, bhikkhave, ime dve sukkā dhammā lokaṃ pālenti tasmā paññāyati [paññāyanti (sī.)] mātāti vā mātucchāti vā mātulānīti vā ācariyabhariyāti vā garūnaṃ dārāti vā’’ti. Navamaṃ.

しかし、幸いにも私たちにはHiriとOtappaという世界を守護する穢れなき2つの法がある。

その故に「彼女は私のお母さんだ」と認識し、「彼女は私のおばさんだ」と認識し、「彼女は私のおじさんの奥さんだ」と認識し、「彼女は私の先生の奥さんだ」と認識し、「彼女は私の尊敬する人の奥さんだ」と認識し、身口意の行為を自ら律することができる。

 

(『南伝大蔵経』十七巻 増支部経典一 p.77)

比丘衆よ、此等の二の白法は世を護る。

二とは何か。

慚と愧となり、

比丘衆よ、此等の二の白法が世を護らぬならば、世の中に母と云ふこと、或いは母の姉妹と云ふこと、或いは母の兄弟の妻と云ふこと、或いは師の婦人と云ふこと、或いは、尊長者の婦人と云ふことが知られず、

世は混乱すべし、

譬えば、山羊、羊、鶏豚、狐、野干(やかん)の如し、

然るに比丘衆よ、此等の二の白法が世を護るが故に、

母と云ふこと、或いは母の姉妹と云ふこと、或いは母の兄弟の妻と云ふこと、或いは師の婦人と云ふこと、或いは、尊長者の婦人と云ふことが知らる。

 

Thanissaro Bhikkhuによる英訳。

Lokapala Suttaとなっている。

http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/an/an02/an02.009.than.html