仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

ブッダの言葉だけで悟る特殊な人々。/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)

 現在では、仏道において、Sotāpanna(預流果)、Arahat(阿羅漢)などに達し、解脱涅槃を達成しようと思うと、Samatha/Vipassanā(止観)の瞑想をするという話になる。

 しかし、パーリ経典を紐解くと、瞑想せずとも、ブッダの説法を聞いただけで、あるいは、その一言半句でSotāpanna(預流果)やArahat(阿羅漢)などのMagga/Phala(道/果)を得る比丘というのが出てくる。いわば、言葉を聞いただけで、悟る(=頓悟する)わけである。

 有名な例は、サーリプッタ尊者である。

 まだ、ブッダに帰依していないころ、サーリプッタ尊者は、王舎城内でアッサジ尊者に出会う。アッサジ尊者は、ブッダの最初の五人弟子の一人である。アッサジ尊者の歩く所作の素晴らしさに「この人は真理を知っているに違いない」と思ったサーリプッタ尊者は、アッサジ尊者に師とその教えを聞く。アッサジ尊者は、一言、

 「諸法は因によって生じる。その諸法にその滅あり」。

 この一言で、サーリプッタ尊者はSotāpanna(預流果)に悟ってしまった。

 また、サーリプッタ尊者の友人のマハーモッガラーナ尊者もサーリプッタ尊者からこの偈を聞いて、同じくSotāpannaになる。(律蔵「大品」)

 また、Bāhiya尊者という人は、ブッダと出会って、短い説法で即座にArahatになり、ブッダに「簡潔に説かれたDhammaの真意を理解する能力が一番優れている」とその能力を賞賛された。(Khuddakanikāya Udānapāḷi 1. Bodhivaggo Bāhiyasuttaṃ 小部経典 自説経 バーヒヤ経)(注1)

 この瞑想せずとも、ブッダの言葉だけで悟るという現象はどういう現象なのか長年謎だった。

 そして、これは、結論から言うと、サーリプッタ尊者やモッガラーナ尊者のような一言半句でSotāpanna(預流果)を得てしまうような人びとは、Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ 略説智者)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ 広説智者)と呼ばれる特別な衆生なのだ。

 まずはAṅguttaranikāya(増支部経典)にブッダの言葉に耳を傾けてみる。

 

 

133. Tatiye catunnampi puggalānaṃ iminā suttena viseso veditabbo –

‘‘Katamo ca puggalo ugghaṭitaññū, yassa puggalassa saha udāhaṭavelāya dhammābhisamayo hoti, ayaṃ vuccati puggalo ugghaṭitaññū. Katamo ca puggalo vipañcitaññū, yassa puggalassa vitthārena atthe vibhajiyamāne dhammābhisamayo hoti, ayaṃ vuccati puggalo vipañcitaññū. Katamo ca puggalo neyyo, yassa puggalassa uddesato paripucchato yonisomanasikaroto kalyāṇamitte sevato bhajato payirupāsato anupubbena dhammābhisamayo hoti, ayaṃ vuccati puggalo neyyo. Katamo ca puggalo padaparamo, yassa puggalassa bahumpi suṇato bahumpi bhaṇato bahumpi dhārayato bahumpi vācayato na tāya jātiyā dhammābhisamayo hoti, ayaṃ vuccati puggalo padaparamo’’ti (pu. pa. 148-151).

――Aṅguttaranikāya (aṭṭhakathā) Duka-tika-catukkanipāta-aṭṭhakathā (14) 4. Puggalavaggo

支部 第4集 第4 人の章

http://tipitaka.org/romn/cscd/s0402a.att49.xml

133ウッガティタンニュ経

南伝大蔵経の訳)

比丘衆よ、これらの四の補特伽羅あり、世の中に存す、何をか四とする。

略開知者、広演智者、所引導者、文句為最上者なり。

比丘衆よ、これらの四の補特伽羅あり、世の中に存す、と。

 

 これは、今、パーリ原文と比べると、南伝大蔵経の方は、「4種の衆生がいる」というだけで、翻訳が大分省略されている感じなので困ってしまうが、Abhidhamma 4巻のPuggalapaññatti(人施設論)には割りと細かくのっている。

 

 

148. Katamo ca puggalo ugghaṭitaññū? Yassa puggalassa saha udāhaṭavelāya dhammābhisamayo hoti – ayaṃ vuccati puggalo ‘‘ugghaṭitaññū’’.

149. Katamo ca puggalo vipañcitaññū? Yassa puggalassa saṃkhittena bhāsitassa vitthārena atthe vibhajiyamāne dhammābhisamayo hoti – ayaṃ vuccati puggalo ‘‘vipañcitaññū’’.

150. Katamo ca puggalo neyyo? Yassa puggalassa uddesato paripucchato yoniso manasikaroto kalyāṇamitte sevato bhajato payirupāsato evaṃ anupubbena dhammābhisamayo hoti – ayaṃ vuccati puggalo ‘‘neyyo’’.

151. Katamo ca puggalo padaparamo? Yassa puggalassa bahumpi suṇato bahumpi bhaṇato bahumpi dhārayato bahumpi vācayato na tāya jātiyā dhammābhisamayo hoti – ayaṃ vuccati puggalo ‘‘padaparamo’

ーーAbhidhammapiṭaka Puggalapaññattipāḷi Niddeso(アビダンマ4巻 「人施設論」第四章 四人)

 

148.何が、Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ 略説智者)か?その人には、説かれると同時にDhamma(法)が現れ、それを観る。これがUgghaṭitaññūと言われる。

149.何が、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ 広説智者)か?その人には、略説された義を広説されつつ、Dhammaが現れ、それを観る。これがVipañcitaññūと言われる。

150.何が、Neyya(ネーヤ 被引導者)か?その人は、説かれ、Yoniso manasikāra(如理作意)を修し、Kalyāṇamitta(善友)に親近し、給仕して、このようにして、次第にして、Dhammaが現れ、それを観る。これがNeyyaと言われる。

151.何が、Padaparama(パダパラマ 語句最上者)か?その人は多くを聞いても、多くを話されても、多くのものを受けても、多くを語れても、その生存中にDhammaが現れ、それを観ることはない。これをPadaparamaという。

南伝大蔵経を参考に私訳)

 

 ひとつひとつ、説明していきたい。

1.Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ 略説智者):結論を言ってしまうと、サーリプッタ尊者、マハーモッガラーナ尊者などの一言半句で、Sotāpanna(預流果)などの道果を得てしまう人は、伝統的なパーリ経典解釈では、Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ 略説智者)と言われる方々なのだ。ブッダから、法を聞いたその瞬間にDhammaがありのままに現前して、悟ってしまう。それが、Ugghaṭitaññū(略説智者)である。

2.Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ 広説智者):これは一言半句ではMagga/Phala(道果)は得られないが、ブッダに細かく詳細に法を説かれて、初めてDhammaがありのままに現前して、悟ってしまう。そういう方々である。例えば、中部経典109『大満月経』では、五蘊についての説示で、60人の比丘が解脱し、同じく中部経典119の『六六法経』では、六処の無我を説いた説法で、60人の比丘が解脱し、阿羅漢になったとある。こういう方々がVipañcitaññūである。

3.Neyya(ネーヤ 被引導者):これは、一言半句でもブッダに詳細に法を説かれても、Magga/Phala(道果)は得られないが、師匠について、手とり足取り指導してもらって、Yoniso manasikāra(如理作意)、Samatha/Vipassanā(止観)の瞑想修業によって、初めて、法がありのままに現前して、Sotāpanna(預流果)なりのMagga/Phala(道果)を得るという方々である。

4.Padaparama(パダパラマ 語句最上者):名前の通り、言葉が最上の人。いくら法を聞いても、修行しても、その生存中は、Jhāna(禅定)も得られず、Magga/Phala(道果)を得られないという方々である。

 

 そして、パーリ経典の解釈では、UgghaṭitaññūやVipañcitaññūという方がどうして、こんなにも急速に悟れるのかというのがある。それは、まず、「ブッダのもとで修行して悟りたい」という強烈な請願のもとで、何生にもわたって、修行し、Pāramī(波羅蜜)を積んできた方々だからである。表面上は、瞑想しないで悟っているように見えるが、過去生で、Samatha/Vipassanā(止観)の修業をして、あと1つのトリガーで悟るという状態で、ブッダと同時代に生まれてきた人なのだそうだ。

 そして、Ugghaṭitaññū、Vipañcitaññūというのは、「ブッダのもとで修行して悟りたい」という請願のもとで修行してきた衆生であるから、ブッダのいない現在にはUgghaṭitaññū、Vipañcitaññūは存在しない。現在には、NeyyaとPadaparamaしかない。つまり、現在において、仏法を聞いただけで、Magga/Phala(道/果)を得るという人は存在しないのだ。われわれが、Magga/Phala(道/果)を得て、解脱涅槃を成就しようと思ったら、地道に瞑想修行していくしかないということだ。

 つまりはほとんど修業としては、できあがっており、そういう方が、

 「諸法は因によって生じる。その諸法にその滅あり」と聞くと、そのトリガーだけで、法がありのままに現前して、Magga/Phala(道/果)を得るという。そういうことらしい。

 そして、法を聞いただけで、法が現前するPaññā(慧)だが、これには、名前がついている。長部経典33の結集経。

 

‘‘Aparāpi tisso paññā – cintāmayā paññā, sutamayā paññā, bhāvanāmayā paññā.

――Dīghanikāya 33 Saṅgītisuttaṃ

http://tipitaka.org/romn/cscd/s0103m.mul9.xml

 

3種のPaññā(慧)があります。

Cintāmayā paññā(思からなる慧)

Sutamayā paññā(聞からなる慧)

Bhāvanāmayā paññā(修からなる慧)

 

Sutamayā paññā:Ugghaṭitaññū、Vipañcitaññūの法を聞いただけで現れるPaññā(慧)。この法を聞くことから生じるPaññāを、Sutamayā paññāという。

Cintāmayā paññā:これは、VipañcitaññūのDhammaを自分のなかで、反芻して生じるPaññā。

Bhāvanāmayā paññā:Samatha/VipassanāなどのBhāvanā(瞑想修行)から生じるPaññāである。

 

Ugghaṭitaññū、VipañcitaññūのPaññāはなぜ鋭いのか?

これは、マハーカルナー禅師によれば、過去世からのPāraī(波羅蜜)の結果なのだそうです。

 

 

Neyya(ネーヤ 被引導者)、Padaparama(パダパラマ 語句最上者)だからと言って、諦めない。

 現在のこの地球上には、Neyya(ネーヤ 被引導者)、Padaparama(パダパラマ 語句最上者)という二種の衆生しかいない。

 そして、最後に重要なのは、「俺は、PadaparamaだからUgghaṭitaññū、Vipañcitaññūのサーリプッタ尊者とか違うから、修行してもダメだ」と諦めないということだと思う。

 むしろ、Neyya、Padaparamaだからこそ、四悪趣にあるリスクが高く、一層真剣に修行する必要がある

 そして、すべては縁起によっておこるから、たとえ今生で、Jhāna(禅定)に入れなくても、Magga/Phala(道果)を得られなくても、今生で積んだPāramī(波羅蜜)次第で、来世、来来世で、そうなれる可能性は十分にある。だから、今、ダメだからといって諦める必要は一切ない。努力して、徐々に成熟していけばいい。

 また、こういう話をすると脊髄反射的に「差別だ」という歪んだ受け取り方をする方がいるのだが、Ugghaṭitaññū、Vipañcitaññūだからと言って、それは、修業によって、縁起によってそうなっていただけの話で、だから優れているとか劣っているとかそういう話ではない。すべては諸法無我で縁起によるのだから、今、Padaparamaである人も因縁に由って、将来Ugghaṭitaññū、Vipañcitaññūとなり、はるか未来にMetteyya Buddha(弥勒仏)等のもとに生まれ、ブッダの一言半句で解脱するとか、そういう展開をする可能性は十分にありうる。

 マハーカルナー禅師が「VipassanāでNāmarūpa(名色)が観られるのは、自転車に乗れるようなもの。全然大したことじゃない。そのときがくれば、自ずから観られるようになる」とおっしゃらていたが、Ugghaṭitaññū、Vipañcitaññūになって、ブッダの一言半句で悟ったというのも、因縁に由って「自転車が乗れるようになった」とか「けん玉ができるようなった」とかいう話と基本的に同じで、べつに全然大した話ではないと思う。

 ただたんに努力して、できるようになりましたという話。

 

 そういうことで、ブッダの一言半句で悟る衆生のことも先日の苦と同じで長年の謎だったが、完全ではないが、一応自分なりにある程度の納得はできた。

 

(注1)

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