「仏教」という概念の囚われから脱するーキリスト教とイエス・キリストの教えとが違うように……
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河出文庫『ヨーロッパ中世(9)』読書メモ
— irr (@IrrTenko) 2016年11月23日
・現在「キリスト教」と思われているものは、キリストの死後約千年ほどかけて、ゆっくり形成されてきたもの。
・日曜のミサ、告解、聖体拝領なども、最初から信者の義務ではなかった。また、洗礼、婚姻、死亡の教会への登録も行われていなかった。
河出文庫『ヨーロッパ中世(9)』読書メモ
・現在「キリスト教」と思われているものは、キリストの死後約千年ほどかけて、ゆっくり形成されてきたもの。
・日曜のミサ、告解、聖体拝領なども、最初から信者の義務ではなかった。また、洗礼、婚姻、死亡の教会への登録も行われていなかった。
世界の歴史〈9〉ヨーロッパ中世 (河出文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/B00LQ5JE82/ref=cm_sw_r_cp_api_Wc6hzbQHX767W
キリスト教とイエス・キリストの教えは必ずしもイコールではないらしい。
私は、同様に「ブッダの教え」と「仏教」は、ちがうものだと思っている。
端的に言うと、
◼︎ブッダの教え=2500年前のインドに生きていたゴータマ・ブッダの教え
◼︎仏教=2500年の過去から現在に至るまで、インドからアジアで形成されてきた何か
だと思っている。
私自身は、世間でいう「仏教」
というものに興味がない。そういう意味で自分は仏教徒ではない。
では、何に興味があるかというと 純然たる「ブッダの教え」に興味がある。
私は、自分は仏教徒ではなく、Sāvaka(サーワカ 仏弟子)だと思っている。
個人的に思うのは、仏教徒というのは、「仏教」という宗教の徒であるということだ。
Sāvaka(仏弟子)というのは、ブッダと自分の一対一の関係。Dhamma(法)と自分の一対一の関係だと思っている。
キルケゴール的にいうと単独者として、個人で、ブッダやダンマに対峙して行くのがSāvakaだと思っている。
「仏教」という話になると、大乗とかテーラワーダとか何が正しいかという話がある。
しかし、私はそれは本質ではないと思っている。
では、本質は何かというと「本当に必要なものは何か」だと思っている。
例えば、南伝の比丘は、般若心経も唯識も仏性も知らずとも、阿羅漢果を得ている。
般若心経や唯識が正しいかという議論は置いておいて、煩悩を滅し精神を完全に清浄にし、一切の苦を根絶するには、般若心経や唯識は必要ないということだ。
そういったものを一切知らずとも、精神の清浄、苦の根絶は達成できるということだ。
そして、それでいいのではないだろうか?
重要なのは、目的を達成するために何が必要かということ。
そして目的は何か。目的を達成するための手段は何かということである。
ブッダの死後に様々に形成されたあれこれに対して、「過去の教えと矛盾している」とかあれこれ思い悩んで必要以上に消耗する必要はないと思う。
苦の根絶や煩悩の根絶に自分にとって何が必要かということを見極めさえすればよい。
私は、<いわゆる仏教>からはなるべく距離を置こうとしているし、<いわゆる仏教>や<仏教徒>という概念に違和感を覚える。