仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

善友経(Kalyāṇamitta-sutta)

Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル(現在は閉鎖)
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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 善友経(Kalyāṇamitta-sutta)―「善友がいること、善友と共にいること、善友と交わることが、仏道のすべてである」という経典です。

 

相応部経典 1.有偈篇 3.コーサラ相応 第二章 129 善友経
Saṃyutta-Nikāya 1.Sagātha-vagga 3. Kosalasaṃyuttaṃ 2. Dutiya-vagga Kalyāṇamitta-sutta

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0301m.mul2.xml

 

Ekamantaṃ nisinno kho, mahārāja, ānando bhikkhu maṃ etadavoca – ‘upaḍḍhamidaṃ, bhante, brahmacariyassa – yadidaṃ kalyāṇamittatā kalyāṇasahāyatā kalyāṇasampavaṅkatā’’’ti.

 

 大王よ、一方に坐ったアーナンダ比丘は私にこう言いました。
 『尊師よ、善き友であること、善き連れであること、善き仲間であることは、梵行の半分であります』と。

 

‘‘Evaṃ vuttāhaṃ, mahārāja, ānandaṃ bhikkhuṃ etadavocaṃ – ‘mā hevaṃ, ānanda, mā hevaṃ, ānanda!

Sakalameva hidaṃ, ānanda, brahmacariyaṃ – yadidaṃ kalyāṇamittatā kalyāṇasahāyatā kalyāṇasampavaṅkatā.


 大王よ、このように言われたとき、私はアーナンダ比丘にこう言いました。
 『アーナンダよ、そのように言ってはなりません。アーナンダよ、そのように言ってはなりません。
 アーナンダよ、なぜなら、善き友であること、善き連れであること、善き仲間であることは、梵行の全体だからです。

 

Kalyāṇamittassetaṃ, ānanda, bhikkhuno pāṭikaṅkhaṃ kalyāṇasahāyassa kalyāṇasampavaṅkassa ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bhāvessati ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bahulīkarissati’’’.


 アーナンダよ、善き友、善き連れ、善き仲間である比丘にはこの期待があります。かれは八支聖道を修習し、八支聖道を復習するはずです。

 

『パーリ仏典 相応部(サンユッタニカーヤ) 有偈篇I』 片山一良訳 大蔵出版 p.344~

 

 

 この経典のスマナサーラ長老の解説。

仏教講義 17.人とのつきあい方 (3)善友に勝る宝なし (No85)

 

 この経典を昔、読んだとき、「善友(Kalyāṇamitta)が仏道のすべて」というのがいまいち腑に落ちなかった。

 しかし、いろいろ経験を積む内に「確かにすべてが決まってしまう」と最近しみじみと思う。

 端的に言うと、どういう先生につくか、どういう仲間といるかで、本当に自分の修行のすべてが決まってくると思う。

 経典のつづき。

 

‘‘Mamañhi, ānanda, kalyāṇamittaṃ āgamma jātidhammā sattā jātiyā parimuccanti, jarādhammā sattā jarāya parimuccanti, byādhidhammā sattā byādhito parimuccanti, maraṇadhammā sattā maraṇena parimuccanti, sokaparidevadukkhadomanassupāyāsadhammā sattā sokaparidevadukkhadomanassupāyāsehi parimuccanti. Iminā kho etaṃ, ānanda, pariyāyena veditabbaṃ yathā sakalamevidaṃ brahmacariyaṃ – yadidaṃ kalyāṇamittatā kalyāṇasahāyatā kalyāṇasampavaṅkatā’’ti.

 

 アーナンダよ、実に私という善友によって、生まれの法である生けるものたちは、生まれから解脱します。老いの法である生けるものたちは、老いから解脱します。病の法である生けるものたちは、病から解脱します。死の法である生けるものたちは、死から解脱します。愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みの法である生けるものたちは、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みから解脱します。
 アーナンダよ、それゆえ、この根拠によって、「善き友であること、善きつれであること、善き仲間であることは、梵行の全体である」というように知られるべきです。

 

 仏弟子にとって、善友の筆頭は、ブッダで、ここでは「私という善友によって、生きとし生けるものが苦しみから解脱する。それゆえ、善友が梵行の全体である」とおっしゃれている。 

 ブッダご在世の時代は、ブッダが善友の筆頭だった。

 現代では、指導する比丘の方々、また、その比丘について習う在家の仲間が善友ということになろう。

 

 アメリカの映画監督のJohn Cassavetesの映画で、A Woman Under the Influence(影響のもとの女、邦題は『こわれゆく女』)という映画があるが、人間というのは、本当に影響の下―Under the Influence に生きている。

 同じ仏法を教えているといっても、どういう師につくかでぜんぜん違う結果になるということを、私も経験でも感じてきた。

 昔、某寺へ行った時、参禅歴30年とかいう方がいて、「前に通っていたところで、迷路に迷い込んでね。ノイローゼになった」という方がいた。

 そういう方も、現在の師匠のもとで元気にやられているわけだ。

 極端なことを言えば、オウム真理教の人々も、麻原彰晃でなくて、ゴータマ・ブッダに出会っていたら、結果が180°違っていたはずである。

 

 よく「弟子の準備ができたときに、師が現れる」という。

 目の前にどんないい先生がいても、自分の準備というか受け入れる土壌がないと、確かに受け入れられないという場合が多い。

 そして、いい先生に出会えるかどうかというのは、いろんな条件があると思うが、Pāramī(波羅蜜)という要素は確かあると感じる。

 

 先月3月は年度末で仕事が忙しく、心がAkusalaでドロドロな状態だった。

 4月に久しぶりに原始仏教トークに参加して、みなさんと法話を聞いて、心の汚れが洗い出されたというか、心がピカピカになった。

 一言で言えば、心がKusalaになったということである。

 

 善行もなかなか一人で継続するのは難しいが、大勢でやれば、自分一人ではできない善行もできてしまうということがある。

 それは、「善友の力」だと思った。

 また、人が一生懸命、善行をしていたりするのを見ると、それだけで、Muditā(喜)の心、他人の善行を喜ぶ心が生じて、心がKusalaになる。

 

 ブッダによれば、善行の力によって、人をして涅槃に至らしむるということで、善行の力というのは、ものすごい。

 ブッダが「善友がすべてだ」とおっしゃれていることは、誠に意義深い言葉だと思った。

 

相応部(サンユッタニカーヤ) 有偈篇I (パーリ仏典 第3期1)

相応部(サンユッタニカーヤ) 有偈篇I (パーリ仏典 第3期1)

 

 

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Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本