仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

「仏教」という概念の囚われから脱するーキリスト教とイエス・キリストの教えとが違うように……

https://twitter.com/irrtenko/status/801431614723006464

 

河出文庫『ヨーロッパ中世(9)』読書メモ

・現在「キリスト教」と思われているものは、キリストの死後約千年ほどかけて、ゆっくり形成されてきたもの。
・日曜のミサ、告解、聖体拝領なども、最初から信者の義務ではなかった。また、洗礼、婚姻、死亡の教会への登録も行われていなかった。

 

世界の歴史〈9〉ヨーロッパ中世 (河出文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/B00LQ5JE82/ref=cm_sw_r_cp_api_Wc6hzbQHX767W

 

世界の歴史〈9〉ヨーロッパ中世 (河出文庫)
 

 

  キリスト教イエス・キリストの教えは必ずしもイコールではないらしい。

 

  私は、同様に「ブッダの教え」と「仏教」は、ちがうものだと思っている。

 

  端的に言うと、

 

◼︎ブッダの教え=2500年前のインドに生きていたゴータマ・ブッダの教え

◼︎仏教=2500年の過去から現在に至るまで、インドからアジアで形成されてきた何か

 

だと思っている。

 

  私自身は、世間でいう「仏教

というものに興味がない。そういう意味で自分は仏教徒ではない。

 では、何に興味があるかというと 純然たる「ブッダの教え」に興味がある。

  私は、自分は仏教徒ではなく、Sāvaka(サーワカ 仏弟子)だと思っている。

 

  個人的に思うのは、仏教徒というのは、「仏教」という宗教の徒であるということだ。

    Sāvaka(仏弟子)というのは、ブッダと自分の一対一の関係。Dhamma(法)と自分の一対一の関係だと思っている。

 

  キルケゴール的にいうと単独者として、個人で、ブッダやダンマに対峙して行くのがSāvakaだと思っている。

 

  「仏教」という話になると、大乗とかテーラワーダとか何が正しいかという話がある。

  しかし、私はそれは本質ではないと思っている。

  では、本質は何かというと「本当に必要なものは何か」だと思っている。

 

  例えば、南伝の比丘は、般若心経も唯識も仏性も知らずとも、阿羅漢果を得ている。

  般若心経や唯識が正しいかという議論は置いておいて、煩悩を滅し精神を完全に清浄にし、一切の苦を根絶するには、般若心経や唯識は必要ないということだ。

 そういったものを一切知らずとも、精神の清浄、苦の根絶は達成できるということだ。

 

  そして、それでいいのではないだろうか?

 

  重要なのは、目的を達成するために何が必要かということ。

  そして目的は何か。目的を達成するための手段は何かということである。

 

  ブッダの死後に様々に形成されたあれこれに対して、「過去の教えと矛盾している」とかあれこれ思い悩んで必要以上に消耗する必要はないと思う。

 

  苦の根絶や煩悩の根絶に自分にとって何が必要かということを見極めさえすればよい。

 

  私は、<いわゆる仏教>からはなるべく距離を置こうとしているし、<いわゆる仏教>や<仏教徒>という概念に違和感を覚える。

 

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 免責事項については、思うところがあって、今回書かせていただきました。
 最近、瞑想ブームというか、ネットでも瞑想の記事を多く見かけますが、個人的には安易に瞑想を勧める風潮を危惧しています。

 理由は、瞑想に限らず、こういった精神系の情報は、有益な場合も多々ありますが、有害な場合も多々あるからです。

 私の場合、おかしな瞑想をして、顔の筋肉の緊張が常時あるような状態になり、2年くらいしてようやく症状が緩和されたということがありました。
 いろんなグループに出入りしましたが、素晴らしい体験をしたこともあれば、酷い目にあったということもあります。

 オウム真理教の事件はもう前世紀のことであり、近年風化してきています。
 しかし、オウム事件がわれわれに示した、こういった精神系の情報は場合によっては人の一生を破壊しかねないものだということは覚えて置かなければならないことだと私は思います。

 瞑想法などの行法については、あまりにリスクが大きいので、Blogでは書いていません。経典の紹介等をメインにしています。しかし、経典にはまさに行法が載っているわけであり、経典と行法は明確に切り離せない面もあります。
 経典なども出典等、「情報の出どころ」は、読む方が自分で真偽を確認できるように出来る限り載せるようにしています。

 私は、現在では、行法については、古風な考え方をもっています。
 行法については、ネットとかではなく、信頼できる師に直接教えてもらうべきだし、自分が修行上、体験したことには、自分の師以外には話しては行けないと思っています。
 ネットで「私は○○という瞑想体験をした」というのを、不特定多数の人にわざわざ晒すのは、増上慢だと思いますし、それをマネた人が逆になんらかの障害をもってしまう可能性もなきにもあらずで、適切ではないと思っています。事実、危険性があるため出家者は具足戒を受けていない人に自分の瞑想体験を語るのは、戒律で禁じられています。ゆえに比丘戒を受けていない人が混じっている不特定多数の人に瞑想体験を発表するのも、破戒行為となります。(下記)

 

(参考)

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

 

 私は、自分がBlogで書くことについては、責任を持ちたいと思いました。しかし、不特定多数の人に公開する以上、原理的に責任を持ちたくても、責任を持つことは不可能だという結論に達しました。
 責任を持つことが不可能ならば、そのことは明確に明記すべきではないかと思い、今回免責事項をBlogに設定しました。

 しかし、不特定多数の方に責任を持てないのは、私のBlogだけではなく、他サイトや一般に販売されている書籍についても同じ場合が多いです。
 一般に「高名」といわれている僧が書いている書籍でも、経典に照らし合わせると「これはどうなのか」という記述も私の目から見ればあります。

 

 自分を護ることができるのは、究極的には自分です。
 皆様が正しい情報に出会われ、仏道を成就なさることを願います。

 

※免責事項の記述に関しては、こちらのサイトを参考にさせていただきました。

免責事項をサイトには書いておこう!書き方・文例 | A-key function 大学生が始めるべきネットビジネス起業

 

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