仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

慈経 Metta Sutta(書きかけ)

8. Mettasuttaṃ

143.
Karaṇīyamatthakusalena, yanta santaṃ padaṃ abhisamecca;Sakko ujū ca suhujū [sūjū (sī.)] ca, sūvaco cassa mudu anatimānī.

  [解脱という] 目的をよくわきまえた人が、
  静かな場所に行ってなすべきことは [以下の通りである。]
  何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和にゅうわで、高慢でない人になるように。


●Karaṇīyam(〜すべき)

●attha(意味のあること)

●kusalena(巧み、善い)

●atthakusalena(自分の目的を知っている者、意味あるものを目指す人)

●Sakko サッコー「ものすごく上手、有能でなんでもできる性格、Ability」

●ujū,suhujū ウジュ、スジュ「まっすぐストレートで、性格はしっかりしている」

●sūvaco 言われやすい。その人を見たら何かを教えたくなるような性格の明るさ。

●cassa 彼の

●mudu ソフトで柔軟性があること。明るい。

●anatimānī atimānī(高慢、強情)の反対。謙虚でなくてはいけない。

 

144

144.Santussako ca subharo ca, appakicco ca sallahukavutti;Santindriyo ca nipako ca, appagabbho kulesvananugiddho.

足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々もろもろの感覚器官が落ち着いていて、賢明で、

  裏表がなく、在家に執着しないように。

Santussako 喜び、満足。いつでも幸福でいられる性格。

subharo 面倒を見やすい人。養いやすい人。

appakicco 雑事が少ない。

kicca やらなくてはならない仕事。

sallahukavutti 軽い生活。簡素に生活する。すごく簡単で

Santindriyo indriya(感覚器官)を落ち着かせなさい

nipako 熟した人間。智慧のある人間。頭の良い人間。

appagabbho 



145.
Na ca khuddamācare kiñci, yena viññū pare upavadeyyuṃ;
Sukhino va khemino hontu, sabbasattā [sabbe sattā (sī. syā.)] bhavantu sukhitattā.

[智慧ある] 識者達が批判するような、どんな小さな過ちも犯さないように。
幸福で平安でありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

146.
Ye keci pāṇabhūtatthi, tasā vā thāvarā vanavasesā;
Dīghā vā ye va mahantā [mahanta (?)], majjhimā rassakā aṇukathūlā.

いかなる生命であろうともことごとく、
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、
中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、

 

147.
Diṭṭhā vā ye va adiṭṭhā [adiṭṭha (?)], ye va [ye ca (sī. syā. kaṃ. pī.)] dūre vasanti avidūre;
Bhūtā va sambhavesī va [bhūtā vā sambhavesī vā (syā. kaṃ. pī. ka.)], sabbasattā bhavantu sukhitattā.

見たことがあるものもないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
既に生まれているものも、[卵など、これから] 生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

148.
Na paro paraṃ nikubbetha, nātimaññetha katthaci na kañci [naṃ kañci (sī. pī.), naṃ kiñci (syā.), na kiñci (ka.)];
Byārosanā paṭighasaññā, nāññamaññassa dukkhamiccheyya.

どんな場合でも、ひとを欺あざむいたり、
軽かろんじたりしてはいけません。
怒鳴ったり、腹を立てたり、
お互いにひとの苦しみを望んではいけません。

 

149.
Mātā yathā niyaṃ puttamāyusā ekaputtamanurakkhe;
Evampi sabbabhūtesu,

nasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ.

 

あたかも母が、たった一人の我が子を、
命がけで守るように、
そのように全ての生命に対しても、

無量の [慈しみの] 心を育てることです。

 

150.
Mettañca sabbalokasmi, mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ;
Uddhaṃ adho ca tiriyañca, asambādhaṃ averamasapattaṃ.

慈しみの心を、一切世間(すべての生命)に対して
限りなく育てることです。
上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して] も、
わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。

 

151.
Tiṭṭhaṃ caraṃ nisinno va [vā (sī. syā. kaṃ. pī.)], sayāno yāvatāssa vitamiddho [vigatamiddo (bahūsu)];
Etasatiṃ adhiṭṭheyya, brahmametaṃ vihāramidhamāhu.

立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、
あるいは横になっていても眠っていない限り、
この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。

これが梵天ぼんてん (崇高なもの) の生き方であると言われています。

 

152.
Diṭṭhiñca anupaggamma, sīlavā dassanena sampanno;
Kāmesu vinaya [vineyya (sī. syā. pī.)] gedhaṃ, na hi jātuggabbhaseyya punaretīti.

Mettasuttaṃ aṭṭhamaṃ niṭṭhitaṃ.

[このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、
正見を得て、
諸々もろもろの欲望に対する執着をなくし、
もう二度と母体に宿る(輪廻りんねを繰り返す)ことはありません。

 

日本テーラワーダ仏教協会

http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

 

語句の意味引用:アルボムッレ・スマナサーラ長老『ブッダの「慈しみ」は愛を超える』

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0505m.mul0.xml

衆生済度について―第二魔罠経(Dutiyamārapāsasuttaṃ)

 

Saṃyuttanikāya 1.Sagāthāvaggapāḷi 4. Mārasaṃyuttaṃ 5.Dutiyamārapāsasuttaṃ

相応部経典 1.有偈篇 4.悪魔相応 5.第二魔罠経

 

‘‘Muttāhaṃ, bhikkhave, sabbapāsehi ye dibbā ye ca mānusā.

Tumhepi, bhikkhave, muttā sabbapāsehi ye dibbā ye ca mānusā. Caratha, bhikkhave, cārikaṃ bahujanahitāya bahujanasukhāya lokānukampāya atthāya hitāya sukhāya devamanussānaṃ.

Mā ekena dve agamittha.

Desetha, bhikkhave, dhammaṃ ādikalyāṇaṃ majjhekalyāṇaṃ pariyosānakalyāṇaṃ sātthaṃ sabyañjanaṃ kevalaparipuṇṇaṃ parisuddhaṃ brahmacariyaṃ pakāsetha.

Santi sattā apparajakkhajātikā, assavanatā dhammassa parihāyanti. Bhavissanti dhammassa aññātāro.

Ahampi, bhikkhave, yena uruvelā senānigamo tenupasaṅkamissāmi dhammadesanāyā’’

 

「比丘たちよ、私は、天のものも、人間のものも、あらゆる魔罠(まみん)を脱しています。
比丘たちよ、そなたたちもまた、天のものも、人間のものも、あらゆる魔罠を脱しています。
比丘たちよ多くの人びとの利益のため、多くの人びとの安楽のために、世界への憐れみのため、人・天の繁栄のために、利益のため、安楽のために、遊行しなさい。二人して一緒に行ってはなりません。
比丘たちよ、初めもよく、中間もよく、終わりもよい、内容もよく、形式もよい、完全無欠で、清浄な法を示しなさい。梵行を明らかにしなさい。汚れのない少ない生けるものたちがいます。法を聞くことがないために衰退していますが、法をよく理解する者となるでしょう。
比丘たちよ、私も説法のために、ウルヴェーラに近いセーナーニガマへ行くつもりです」

 

『パーリ仏典 相応部(サンユッタニカーヤ) 有偈篇II』 片山一良訳 大蔵出版 p.48-49

 

 Mārapāsa(魔罠、まみん)とは、この経典のひとつ手前の第二魔罠経(Paṭhamamārapāsasuttaṃ)の註釈によれば、煩悩の罠(Kilesa-pāsa)ということだそうです。

 「そなたたちもまた、天のものも、人間のものも、あらゆる魔罠を脱しています」とあるように、この経典は煩悩を根絶した阿羅漢方に説かれた経典のようです。

 

 ブッダ衆生の安楽を願う美しく清らかなKaruṇā(悲)の心が伝わってきます。

 こういうブッダの清らかな言葉を読みますと、こちらの心もおちついて、Kusalaになっていくような思いが気がします。

 

相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇〈2〉 (パーリ仏典)

相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇〈2〉 (パーリ仏典)