仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

仏道の行法に「瞑想」という表現が持ちられるようになったのは、近代。

 「瞑想」という日本語のルーツは、道教や英語の"meditation"のようだ。

 

〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味。

東晋の支遁(あるいは支道林、314-366)の「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、大道に合一するために冥想が貴ばれいる。深い精神集中のなかで根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表すことは、『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。「冥冥に視、無声に聴く。冥冥の中、独り暁を見、無声の中、独り和を聞く」〔『荘子』天地〕、「冥然として造化と一と為る」〔『荘子』養生主、郭象注〕など。「瞑想」もそうした『荘子』の思想を背景として出てきたものと考えられる。
しかし、伝統的な仏教ではこの語はほとんど用いられてない。近代になって、仏教がヨーロッパで研究・実践されるようになると、禅やチベット仏教の実修がヨーガなどとともに、meditation、contemplationとして理解されるようになった。それが邦訳されて〈瞑想〉と呼ばれるようになった。ヨーロッパにおいても、カトリックキリスト教神秘主義の伝統では瞑想を重視する。ここから、仏教の瞑想もこれらのヨーロッパの伝統と比較され、また、心理学や精神医学の領域に取り入れられたりして、広く普及するようになった。

 

『岩波仏教辞典』岩波書店

引用:

http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/meisou/about.htm

(強調は、Zhaozhou_zenji)

 

「Meditation」「瞑想」という表現


瞑想に関しては複数の言語間での翻訳の行き来に伴う表現の混乱がある。
“Meditation” という言葉はラテン語: meditatio に由来している。ローマ時代の meditatio は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していた[2]。
その後、ヨーロッパにおいてはもっぱらキリスト教が発展したので、ヨーロッパ諸語の “Meditation” とはキリスト教のそれを指し、神、イエス・キリスト聖母マリア等を心の中でありありと想い浮かべることを、意味するようになった。これはどちらかといえば仏教における「内観」あるいは「観想」に相当する。ただし日本ではその “Meditation” を「瞑想」と翻訳するのが一般的である。
一方、「内観」、「禅定」等の仏教用語やヨーガなどが、欧米においてはしばしば “Meditation” と翻訳されるため、それらを紹介した欧米の書物がさらに和訳される際(いわば再輸入される際)、それらが元の「内観」等ではなく、「瞑想」と訳されていることも少なくない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3#cite_ref-2

 

 〈冥想〉という道教の言葉があって、近代に英語の"meditation"を訳すときに、「瞑想」という言葉をあてたようだ。

 それが現代の「瞑想」につながっている。

 例えば、「涅槃」という言葉が、経典のNibbāna、NirvāṇaというBuddha vacana(仏語)にルーツを遡れるのに比べれば、日本語の「瞑想」なりたちにはゴータマ・ブッダその人は関与していないという言葉という言葉がわかる。

 三蔵を全部読破したわけではないので断言できないが、日本語の「瞑想」にぴったり適合する仏語、パーリ語というのはないのではないか。

 しいて言えば、Bhāvanā(修習)という語がある。

 しかし、これは、Sīla Bhāvanā(戒修習)などの戒律の護持も含むので、今現在、日本で一般的に使われている「瞑想」という言葉とは、ニュアンスがことなる。(※)

  Samādhi(定)という単語もある。

 しかし、世の中の「瞑想」は、すべてSamādhiを目指しているのか。

 「瞑想」といっても別にSamādhi(定)を目指していないものも結構あるのではないかと思う。

 

 そういうもろもろのことを検討すると、「ブッダの瞑想法」って言葉は変だと思う。 

 本来、ブッダルーツでない言葉をブッダのBhāvanāにあてはめて、「ブッダのもの」としている点が。

 

 そして、「瞑想とは何か?」という問題がある。

 しかし、これは「瞑想」という言葉の成り立ちや意味の変遷自体が曖昧な部分があって、はっきり定義できないと私は思う。

 「瞑想」という言葉は、厳密な用語ではなく、結構、感覚的に曖昧に使われていると思う。

 

 現状、日本語の「瞑想」という言葉は、精神世界を語るときの文法というか構造に組み込まれてしまっているので、「瞑想」という言葉を使わないとコミュニケーションできない。話が通じないという現状がある。

  坐ってやるBhāvanāは、「瞑想」と言えば表現できので、その点では便利な言葉ではあるし、これを使わないでコミュニケーションを取るというのもなかなか難しいと思う。

 しかし、私個人としては、なるべく定義の曖昧な言葉は使わない。正確に言葉を使いたいという思いがある。

 私は、少なくとも文章で厳密に語るときぐらいは、「瞑想」という言葉は、なりたちが曖昧で明確に定義できないので、あまり無造作に使用しないという方針に変わった。

 

(※)ポー・オー・パユットー『仏法』(サンガ)p.374

岩波 仏教辞典 第二版

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