仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

Satiの力で過去世の記憶を蘇らせる

Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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 サンガジャパンのマハーカルナー禅師の記事です。

 

 Satiというのは、なかなか難しいCetasika(心所)です。

 

 Satiの働きの第一義は、マハーカルナー禅師が下記の記事でおっしゃられているように、

 

・Ārammaṇa(所縁)を忘れない

 

です。

 

 これは別の見方をすれば、

 

・CittaをĀrammaṇa(対象)に固定させる(Ārammaṇe daḷhapatiṭṭhitattā)

・対象から心をそらさない(不流失 Apilāpana)

 

 となりますし、

 Ārammaṇa(対象)が過去の記憶ならば、

 

・過去の記憶を蘇らせる、想起する、recall (Paṭissati)

 

 という機能を持っているということを以前の記事で書きました。

 

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

 

 「想起するrecall 、paṭissati」は、Abhidhamma第一巻『Dhammasaṅgaṇī 法集論』に書かれていましたね。

 下記の記事では、そのSatiの「想起する働き」について触れられています。

 ポイントは、第四禅定に通達し、SatiをUpekkhāpārisuddha Sati(捨清浄念)レベルのSatiまで昇華させるということでしょうか。

 

『サンガジャパン vol.21』p.78~81
マハーカルナー禅師「輪廻転生と十二縁起 ~『修行者のためのアビダンマ講座』講義録より」

 

(問)
死後、人はどんな過程を経て輪廻転生していくのでしょうか?
また、それを実際に観察し、検証するには、どのようにしたらよいのでしょうか?

 

(回答)

 修行者はまずJhāna Samāpatti(禅定)、その中でも特に、強く安定したCatutthajjhāna Samāpatti(第四禅定)を証悟し、そのSamāpattiにいつでも自由にアクセスする力をつけなければなりません。
 そのうえでVipassanā Bhāvanā(観行)の準備段階ともいえる二つの智慧、すなわちNāmarūpa Pariccheda Ñāṇa(名色識別智)とPaccaya Pariggaha Ñāṇa(縁摂受智)の証悟をめざす修業を開始します。
 まず、Nāmarūpa Pariccheda Ñāṇaを修行し、その後にPaccaya Pariggaha Ñāṇaを修行しますが、これがいわゆる十二縁起の修業と言われるものですね。

 修行者がPaccaya Pariggaha Ñāṇaの修業の段階に至れば、臨終から再生にいたるNāmarūpaのプロセスを詳細に観察することになるわけです。
Paccaya Pariggaha Ñāṇaの修業は、Nāmarūpa Pariccheda Ñāṇaの証悟が前提ですから、この段階の修行者はすでにNāma(名)やRūpa(色)を正しく識別する能力を持っていなくてはなりません。これは十二縁起の修業を行うために絶対に必要な条件です。
 Paccaya Pariggaha Ñāṇaを証悟するための第一ステップは、自らのAtītakāla(過去時)におけるNāmarūpa(名色)を識別する練習です。彼はすでにVijjamānakāla(現起時)のNāmarūpaを識別することが出来ますから、Sati(不亡念)の力を使って、例えば一分前のNāmarūpaを識別する、五分前のNāmarūpaを識別する、十分前のNāmarūpaを識別するというように、過去のNāmarūpaを記憶に蘇らせて識別していくのです。まずこの練習を繰り返し行います。

 Satiの働きの第一義は「気づいていること」というよりはむしろ「Ārammaṇa(所縁)を忘れない」ことです。Atītakāla(過去時)の識別では、Satiのこの力を使っていくのです。
 では、過去のNāmarūpaを記憶に蘇らせるほどの鋭いSatiは、どうやったら獲得できるのでしょうか?
 まず修行者はĀnāpānasati(安般念)やOdātakasiṇa(白遍)などのSamatha(止)の業処で第四禅に入ります。そしてそのSamāpattiに十分満足するまで住し、その後出定し、Khaṇika Samādhi(刹那定)の状態に入ります。このSamādhi(定)では、第四禅において初めて得られるUpekkhāpārisuddhasati(捨清浄念)という高度に純化され研ぎ澄まれたSatiをそのまま保ちつつ、刹那的に表象する様々なĀrammaṇa(所縁)を捉えていくことができます。通常Pramatthasacca(勝義諦)レベルのVipassanā Bhāvanāは、第四禅定出定直後のこのSamādhiの状態で行います。VipassanāのためのSamādhiということで、修業の現場ではこれをVipassanā Jhāna(観禅)と呼ぶこともあります。
 修行者は、六時間前、十二時間前、一日前、三日前、一週間前、一ヶ月前と段階的に自らのAtītakāla(過去時)におけるNāmarūpaの識別を行っていきますが、初心のうちは、Upekkhāpārisuddhasatiの力が長く継続しないので、すぐに識別力が失われてしまうかもしれません。そのような場合、修行者は一度識別を止め、ĀnāpānasatiやOdātakasiṇaに戻り、そのCatutthajjhāna Samāpatti(第四禅定)に十分に住してから改めて出定し、Atītakāla(過去時)におけるNāmarūpaの識別を再開しなくてはなりません。
 一般にVipassanā修業において、識別が曖昧で不明瞭になってきた場合は、一度観行を中止し、Catutthajjhāna Samāpattiに戻って、力強いUpekkhāpārisuddhasatiをもう一度取り戻さなくてはなりません。修行者はこのプロセスを何度でも繰り返します。

 今生のAtītakālaのNāmarūpaの識別を続けていくと、やがて自分の誕生前後のNāmarūpaが記憶に鮮明に蘇ってきます。修行者はそのまま観行を進め、母の胎内にいるときのNāmarūpaを識別する段階に入ります。そしてついには受胎の瞬間のNāmarūpaまで遡ることができます。受胎時のNāmarūpaの識別に成功したら、瞬間の次に、今生における最初のManodvāra-vīthi(意門心路過程)であるBhava Nikantika Lobha Javana(有欲貪速行)を識別します。
 この段階に達した修行者は、受胎時に生起したPaṭisandhi Citta(結生心)とその後に続く、Bhavaṅga Citta(有分心)をもう一度詳細に識別し、さらにそれらのCittaに随起するすべてのCetasika(心所)を識別します。自らのBhavaṅga Sota(有分流)を構成しているCittaがSomanassa-sahagataṃ(喜倶)かUpekkhā-sahagataṃ(捨倶)かÑāṇa-sampayuttaṃ(智相応)かÑāṇa-vippayuttaṃ(智不相応)かSasaṅkhārika(有行)かAasaṅkhārika(無行)かをよく調べ、Cittaの種類を確定し、Ārammaṇaもはっきり識別しておきます。
 Bhavaṅga Sotaを構成するCittaとCetasika及びそのĀrammaṇaの識別に成功したら、修行者は今生における最初のCittaであるPaṭisandhi Citta(結生心)と共に生起したすべてのKammaja-rūpa(業生色)を詳細に識別します。

 Paṭisandhi Cittaと同時に生起したNāmarūpaを十分満足するまで識別したら、今度はもう1 Cittakkhaṇa(心刹那)だけ過去に戻ってみます。そして、1 Cittakkhaṇa前のCitta+Cetasikaをよく識別してみます。
 もしかするとPaṭisandhi Citta+Cetasikaと比較してCetasikaの構成が変わっていたり、Ārammaṇaが異なっていたりすることに気がつくかもしれません。もしそうであれば、そのCittaは今生のCittaではなく、前生の死亡時に生起したCuti Citta(死亡心)の可能性があります。
 その場合はもう1 Cittakkhaṇaだけ過去に戻り、ひとつ前のCitta+Cetasikaを識別します。Cuti Cittaとまったく同じCittaが見つかるかもしれませんし、異なるCittaが見つかるかもしれません。もし前者であれば、Cuti Cittaの直前に生起した前生のBhavaṅga Cittaですし、もし全く異なるCittaであれば、Maraṇāsanna Javana(臨死速行)に生起したKamma Citta(業心)か、その直後に生起したTadālambaṇa(彼所縁)である可能性があります。もしKamma Cittaであることが分かったら、今生のPaṭisandhi Cittaと比較してみてください。随起するCetasikaの構成やĀrammaṇaを比較してみてください。
 修行者はこのようにSatisampajañña(正念正智)を駆使し、アビダンマをガイドラインとしながら、今生と前生の境界を越えていきます。

 一般にPaccaya Pariggaha Ñāṇaの修業では、過去の方向へは少なくとも五生か六生、未来の方向へはParinibbāna(般涅槃)に至る生存を見出すまで何生でも識別していくように指導されます。

 さて、ご質問の「臨死から再生へ至る名色の過程」について少しお話しましょう。
 先ず今説明した修行法にしたがって収集し、前生の臨死時から今生の受胎直後までNāmarūpaの流れが捉えられるようになったら、その間に生起消滅するすべてのNāmaとそのĀrammaṇa、及びすべてのRūpaを識別してきます。Rūpaについては特にKammaja-(業生)、Cittaja-(心生)-、Āhāraja-(食生)、Utuja-(時節生)の別を正しく見分け、その生成と消滅の過程を詳細に識別していかなければなりません。

(以下、つづきはサンガジャパン vol.21で)

 

 個人的にこれで思い出すのは、長部経典2の『沙門果経 Sāmaññaphalasuttaṃ』におけるPubbenivāsānussati ñāṇa(宿住随念智)です。自分の過去世を思い出すÑāṇa(智)です。

 

長部経典 2『沙門果経 Sāmaññaphala sutta』

244. ‘‘So evaṃ samāhite citte parisuddhe pariyodāte anaṅgaṇe vigatūpakkilese mudubhūte kammaniye ṭhite āneñjappatte pubbenivāsānussatiñāṇāya cittaṃ abhinīharati abhininnāmeti.

 

彼は、そのように入定した、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去った、柔軟な、行為に適した、住立した、不動を得た心において、宿住随念智に心を向け、転じさせます。

 

So anekavihitaṃ pubbenivāsaṃ anussarati,

 

彼は、種々の宿住を随念します。

 

seyyathidaṃ – ekampi jātiṃ dvepi jātiyo tissopi jātiyo catassopi jātiyo pañcapi jātiyo dasapi jātiyo vīsampi jātiyo tiṃsampi jātiyo cattālīsampi jātiyo paññāsampi jātiyo jātisatampi jātisahassampi jātisatasahassampi anekepi saṃvaṭṭakappe anekepi vivaṭṭakappe anekepi saṃvaṭṭavivaṭṭakappe, ‘amutrāsiṃ evaṃnāmo evaṃgotto evaṃvaṇṇo evamāhāro evaṃsukhadukkhappaṭisaṃvedī evamāyupariyanto, so tato cuto amutra udapādiṃ; tatrāpāsiṃ evaṃnāmo evaṃgotto evaṃvaṇṇo evamāhāro evaṃsukhadukkhappaṭisaṃvedī evamāyupariyanto, so tato cuto idhūpapanno’ti.

 

たとえば、一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、百千の生、多くの壊劫、多くの成劫、多くの成壊劫を、『私はそこで、かくの如き名、かくの如き種姓、かくの如き階級であり、かくの如き食を取り、かくの如き楽苦を経験し、かくの如く寿命を終えた。その〔私〕はそこから死してあそこへ生まれた。あそこでまた私はかくの如き名、かくの如き種姓、かくの如き階級であり、かくの如き食を取り、かくの如き楽苦を経験し、かくの如く寿命を終えた。その〔私〕はあそこから死してここへ生まれた』というように。

 

(引用:光明寺様)

http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn02/dn02c21.htm

 

 

 この沙門果経のPubbenivāsānussati(宿住随念)も"anussati"(随念)ですが、やはりSatiなのでしょうか。

 今後の研究テーマだと思います。

 

 Buddhaのお説きになられるDhammaは、こういう基本的なSatiをひとつとってみても非常に深いと思います。

 本当は、Satiの動きを十八界レベルで分析するとか、Vīthi(心路過程)レベルで分析するとかをやりたいのですが、実力不足でいまだできておりません。

 

サンガジャパンVol.21

サンガジャパンVol.21