仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

2018年5月13日(日)原始仏教トーク#50「智慧ある人 ー 高さではなく継続が本当の智慧をつくる」

Buddhābhivādanā 礼拝文


Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。


Bhājemi Pūjā 廻向偈


Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。


Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように


Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします


Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。


参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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瞑想をしていると、一瞬の煌めき、

数秒間から数分続くまばゆい光や至福感が感受されることがあります。

 

これらの体験は彼の目をくらまし、心や判断を惑わし、

修行者の心に執着が生じます。

彼は、これらを追体験したい、という思いに席巻され、

ついには、この体験をしたか否かが、彼の修行の判断基準となり、

再びこの体験をすることが、

彼の修行の目的となってしまいます。

このようにして、ついに彼は正しい八正道の道を踏み外してしまうのです。

 

これはまさに、お釈迦様が「ヴッパッサナーの汚染」と呼ばれた修行上の障害に他なりません。

 

高い感覚の強さではなく、むしろその持続が高い人間をつくるように、

瞑想体験の高さではなくして、その継続が本当の智慧をつくるのです。

アスピレーションの高さではなく、その継続こそが涅槃証悟に至る正しい道なのです。

 

詳細:

原始仏教トーク 第50回 『 智慧ある人 ー 高さではなく継続が本当の智慧をつくる』 2018年5月13日(東京都) - こくちーずプロ(告知'sプロ) #原始仏教トーク

http://www.kokuchpro.com/event/gb50/

 

 

 

Ānāpāna Sati(アーナーパーナ・サティ 安般念 出入息念)―長部経典22大念処経(Mahāsatipaṭṭhāna sutta)

Buddhābhivādanā 礼拝文


Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。


Bhājemi Pūjā 廻向偈


Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。


Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように


Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします


Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。


参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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Dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti,

長く出息するときは、〈私は長く出息する〉と知ります。

dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti.

長く入息するときは、〈私は長く入息する〉と知ります。

 

Rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti,

短く出息するときは、〈私は短く出息する〉と知ります。

rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti.

短く入息するときは、〈私は短く入息する〉と知ります。

 

‘Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati ,

 〈私は全身を感知して出息しよう〉と学び、

‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati.

 〈私は全身を感知して入息しよう〉と学びます。

 

‘Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati,

〈私は身行を静めつつ出息しよう〉と学び、

‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.

 〈私は身行を静めつつ入息しよう〉と学びます。

 

パーリ原文:

Pali Tipitaka Search

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0102m.mul8.xml

日本語訳:

片山一良『長部(ディーガニカーヤ)大篇〈2〉 (パーリ仏典) 』(大蔵出版)p.212

語句の意味など。

http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c02.htm

 

この部分に関しては、

マハーカルナー禅師が、Ānāpāna Sati法話をした際に配布なさったテキストに載っている訳が個人的にいいと思います。

傅修院でテキストを頼めば、入手できるかと思います。

ブログでは、片山先生の訳をのせました。

 

長部(ディーガニカーヤ)大篇〈2〉 (パーリ仏典)

長部(ディーガニカーヤ)大篇〈2〉 (パーリ仏典)