他人を指差すのを止めること。ースマナサーラ長老
Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•旧マハーカルナー法友会PDF。
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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本当の仏教徒になりたければ、すべきことは信仰ではないんです。他人を指差すのを止めることです。他人の変に見えることは、その人の生き方だから自分に関係ないんだと。そう思った途端、その人の心は平和になっちゃうんです。目の前に安心、穏やかな世界が広がるんです。
50.
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.
他人の過ち、他人のしたこと、しなかったことは気にしない。
自己を観察する。
何をしたか、何をしなかったかと。
(日本テーラワーダ仏教協会訳)
(Dhammapada 50)
スマナサーラ長老、ロヒンギャ問題について。
#jtba スマナサーラ長老の法話と実践会(ゴータミー精舎)午前の部を動画中継いたします。 https://t.co/KpmAi5AoF4
— 日本テーラワーダ仏教協会 (@jtba_info) 2017年9月10日
Q仏教国ミャンマーのロヒンギャ問題をどう考えればいいのか?
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
Aケンカは一人だけで起きるものではありません。暴力の応酬があっても、仏教とのほうだけクローズアップして騒ぐ傾向がある。でも理解足りない仏教の人々も、自分たちが黙って大人しくしていたら全滅してしまうと不安になっている。
でも、それは仏教の教えではない。平和でいればいいと思いますよ。それぞれの人の自由を認めてあげてね。ミャンマー人が悪いということではない。人類どこでも同じことですからね。仏教を破壊するために狙っている人々がいる。世界的にイスラム教を批判しているのに、ミャンマーに限っては応援したり。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
私にしても、仏教徒が他の人々に迷惑をかけているという話を聞くのは本当に嫌なことです。ミャンマーで凶暴にイスラム教に反対してる坊さんがいて、スリランカにも来たんですが、皆それに反対したんです。そのお坊さんを読んだグループも強い批判を浴びた。そういうやり方はよくないと思っている。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
なぜみんな平和に暮らすのが嫌なんでしょうね? いまスリランカでは、タミル人もイスラム教徒も仲良くゴチャゴチャ暮らしている。デモなどもあるけど、それは民主主義で自由ということでしょう。でもヨーロッパの国々はその状況が嫌みたいです。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
ミャンマーも多民族・多宗教国家で、それを変えることはできません。歴史的に出来上がった状況ですから。(違いを認めて、仲良く生活するしかない。)私から見ると、スーチーさんもリーダーシップが足りません。あるいは国民全体的に差別反対と言わないといけない。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
ミャンマーだけではなく、世界じゅうどこでも兄弟として生きていけばいいんじゃないですかね。なんでケンカするのかと。状況はよく分からないですけど、イスラム教徒であろうがミャンマー人(の仏教徒)であろうと、人を殺したり家を燃やしたり、やっていいことではないでしょう。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
知識と理性というものが必要ですよ。私は派手に仏教をしゃべっているし、イスラム教を批判しているし、神への信仰をバカにしています。でも、それは知識的なことに限った話で、人間として接するときはムスリムだろうとクリスチャンだろうと、とことん仲よくするんです。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
仏教が言っているのは、良いことをすればよい結果を得る。悪いことをすれば悪い結果を得るということ。そこに宗教は関係ないんです。仏教徒のミャンマー人が人を殺したら、それは仏教に反した悪行為であり、罪を犯したこと。それで終わり。仏教を守るためにやったんだといっても、そんなのは関係ない。
— スマナサーラ長老の法話メモ (@jtba_talk) 2017年9月10日
現代宗教2016 ミャンマーにおける宗教対立の行方―上座仏教僧の活動に注目して―(PDFファイル)藏本龍介 https://t.co/Pu6jlHjQtf 反ムスリムと仏教ナショナリズムを叫ぶ仏教僧侶の969運動やマバタの動向、および仏教徒内部からの反ムスリム運動批判を紹介。
— nāgita #antifa (@naagita) 2017年9月8日
ミャンマーの反ムスリム運動・仏教ナショナリズムを批判するテーラワーダ仏教僧の言葉
— nāgita #antifa (@naagita) 2017年9月8日
「ブッダは自分の教えを自分の仲間(民族・親戚)にだけ伝えようとはしなかった。ブッダにしたがい、仏教徒として生きている出家者は、「民族」を守るべきなのか、考えるべきだ」(モンセイントーヤ長老)
ロヒンギャ問題は、言及するのが難しい問題だと思います。
歴史的には経緯を見れば 、かつてミャンマーではイスラムと仏教は、共存し、深い対立はありませんでした。
しかし、イギリスの植民地化や第二次大戦の英軍、日本軍がミャンマーの社会、宗教を歪めてしまった側面もあります。
ミャンマーの仏教徒もロヒンギャの人々も、被害者であると同時に加害者であり、単純な善玉悪玉論で語れません。
どうすれば、ロヒンギャの人々、その他ミャンマーの人々が幸せに暮らせるのでしょうか。
また、そういう状態にするには、どうすればいいのでしょうか。
とても難しい問題だと思いました。
ただスマナサーラ長老の最後のツイート。からは仏弟子として、外してはいけないことだと思いました。
スマナサーラ長老:仏教が言っているのは、良いことをすればよい結果を得る。悪いことをすれば悪い結果を得るということ。そこに宗教は関係ないんです。仏教徒のミャンマー人が人を殺したら、それは仏教に反した悪行為であり、罪を犯したこと。それで終わり。仏教を守るためにやったんだといっても、そんなのは関係ない。
「仏教のため」「民族のため」といっても、暴力など、心にAkusala(不善)が生起していれば、その行為は、Akusala。
「不善をなさず、善をなせ。心を清めよ」(ダンマパダ183)という仏道から外れています。
この点だけは、仏弟子として、外れてはいけないポイントだと思いました。