仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

Papañca(パパンチャ)とVipallāsa(顚倒)

 

Buddhābhivādanā 礼拝文

Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。

 

Bhājemi Pūjā 廻向偈

Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。

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 Avijjāsava(無明漏)が引き起こすPapañca(パパンチャ)とVipallāsa(顚倒)という2つの認識の歪みについての経典でのブッダの言葉をまとめました。

 

Papañca(パパンチャ)

 パーリテクスト的な文脈で、Papañcaを詳細に解説したのは、私の知る限りスマナサーラ長老が日本で初めてだと思います。

 以下、スマナサーラ長老の解説のリンク。

 

根本仏教講義→23.刺激論 (4)知っているのは「主観」

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi130.html

根本仏教講義→23.刺激論 (5)パパンチャのからくり

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html

papañca ヴィパッサナーで破るもの

http://gotami.j-theravada.net/papanca.pdf

 

 上記の中で、スマナサーラ長老は、Papañcaを「幻想」「捏造」などと解説なさっている。

 ブッダの説かれる「幻想」「捏造」=Papañcaを参照するために中部経典18「蜜丸経」を紐解く。

 

Phassa paccayā vedanā, 

yaṃ vedeti taṃ sañjānāti,

yaṃ sañjānāti taṃ vitakketi,

yaṃ vitakketi taṃ papañceti

( Majjhima Nikāya 18 Madhupiṇḍika Sutta)

 

触によって感受が生じます。

感じたものを知り、知ったものを思慮します。

思慮したものを現象化、言い換えれば捏造します。

 

Majjhima-Nikāya 18 Madhupiṇḍika-Sutta(Majjhima-Nikāya 1.Mūlapaṇṇāsapāḷi 2.Sīhanādavaggo 8.Madhupiṇḍika-Sutta)

中部経典18「蜜丸経」(『中部』「根本五十篇」「獅子吼品」〕第八〔経〕「蜜玉経」)

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0201m.mul1.xml

http://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn02/mn02c19.files/sheet001.htm

 

 この経典についてのスマナサーラ長老の解説。

 

 自分だけの知識にする仮定を捏造、または妄想というのです。yaṃ vedeti 感じたものを、sañjānāti 知ることに、知ったものをvitakketi 考えることにする。考えたことから、合成をする。これが幻想(papañca)なのです。

 

生命が「個」して明確に区別される時


 「私は・彼は」という特定の生命を表す言葉の有無によって、パーリ語でもこの微妙なニュアンスが表現されています。
 初期識の説明であるPhassa paccayā vedanāという文には特定の生命を表す単語が入っていません。しかし、認識過程の説明文では、yaṃ vedeti taṃ sañjānāti(感じたものを知る)という文で、初めて特定の生命を表す言葉を使っています。
 正しく訳すなら、「感じたものを彼が知る」ということになります。ここで初めて
 「個」という実感が生じるのです。
 これは、感じたものを知るという段階で、初めて生命が「個」として、明確に別れることを表しています。
 感覚が生じた段階で、「私」という自我が入ってきます。私が感じたものは、何なのかと思慮し、結論を出すのです。

 この時、思慮される対象は、既に客観的な外部データではなく、知ったもの、主観のフィルターを通して、内部に入り込んだものについて考えています。

 思慮の結果出された結論を幻想(papañca)と呼びます。これが我々の認識世界なのです。


アルボムッレ・スマナサーラ『人生は美しく清らかに』サンガ p.102

 

 Madhupiṇḍika-Suttaの認識の仮定を図式化すると、

 

Phassa(触)→Vedanā(受)→Sañjānā(知る)→Vitakka(思慮する)→Papañca(認識の捏造)

 

 ということになる。

 

 

その後に「受」(Vedanā)が生じます。…ここで、私たちはとんでもない誤解をするのです。単に「知った」というのではなく、「私が知った」と、突然「私が」という主語を入れて認識するのです。事実は、眼に色形が触れて見えるという認識が生じた、それだけなのに、私たちは事実どおりに理解せず、「私が見た」と、何の根拠もなく主語を入れて認識するのです。

 

根本仏教講義→23.刺激論 (4)知っているのは「主観」

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi130.html

 

妄想を作る働き(Papañca)

ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。「パパンチャ・papañca」ということ。ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。

 

根本仏教講義→23.刺激論 (5)パパンチャのからくり

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi131.html

 

 

 認識の過程で、Phassaの時点では、まだ「私」というDiṭṭhiはない。

 しかし、Vedanā(受)の時点で、初めて、「私」が捏造される。

 その後、Sañjānā(知る)→Vitakka(思慮する)→Papañca(捏造)という風に認識が捏造されていく。

 つまり、有情が内包する認識の根本的な欠陥である。

 この捏造の根本因は、Avijjāsavaである。

 

 最後に光明寺さんのMadhupiṇḍika-Suttaの訳から、引用する。

 

‘‘Yatonidānaṃ, bhikkhu, purisaṃ papañcasaññāsaṅkhā samudācaranti.

Ettha ce natthi abhinanditabbaṃ abhivaditabbaṃ ajjhositabbaṃ.

Esevanto rāgānusayānaṃ, esevanto paṭighānusayānaṃ, esevanto diṭṭhānusayānaṃ, esevanto vicikicchānusayānaṃ, esevanto mānānusayānaṃ, esevanto bhavarāgānusayānaṃ, esevanto avijjānusayānaṃ, esevanto daṇḍādāna-satthādāna-kalaha-viggaha-vivāda-tuvaṃtuvaṃ-pesuñña-musāvādānaṃ.

 

「比丘よ、およそ〈それ〉によるがゆえに、人に迷妄を具えた想の部類が生起するようなもの。

もし〈そこ〉に、もし歓喜すべきこと、歓迎すべきこと、固執すべきことがなければ、

このことはまさしく貪欲という随煩悩の終結であり、このことはまさしく瞋恚という随煩悩の終結であり、このことはまさしく見という随煩悩の終結であり、このことはまさしく疑という随煩悩の終結であり、このことはまさしく慢という随煩悩の終結であり、このことはまさしく有貪という随煩悩の終結であり、このことはまさしく鞭を取ること、剣を取ること、不和、異執、口論、論争、両説、妄語の終結なのです。」

 

Majjhima-Nikāya 18 Madhupiṇḍika-Sutta

中部経典18「蜜丸経」

 

 papañcasaññāsaṅkhāとは、日本語訳が難しい言葉である。

 光明寺住職師は、<「saṅkhāとは部分である。 Papañcasaññāとは渇愛と慢と見による迷妄をそなえた想である」saṅkhāti koṭṭhāso. Papañcasaññāti taṇhāmānadiṭṭhipapañcasampayuttā saññāという註に従って訳したが、及川訳のように「迷妄の想というもの」というふうに素直に訳すべきかもしれない。>とコメントなさっている。

 papañcasaññāとは、papañcaを備えたsaññā(想)であろうが、それとsaṅkhāがどうつながるのかよくわからない。

 スマナサーラ長老は、この部分は、papañcasaññāsaṅkhāを「papañcaを構成する原因」p.107と訳している。

 また、「想(saññā)、概念が現れない状態で心を保つ、それが解脱の境地なのです。我があるためにsaññāが生まれ、saññāが現れる過程を乗り越えた状態が涅槃です」p.111『人生は美しく清らかに』とコメントなさっている。

 いずれにせよ、経典のこの部分でお釈迦様の意図さなっているポイントは、

「papañcasaññāsaṅkhāを乗り越えることが、Anusaya(随眠 ずいめん:根本的な煩悩)の終焉であり、争い、妄語等の終焉である」ということである。

 

Vipallāsa(顚倒)

 

Aṅguttara-Nikāya Catukka-nipāta 5. Rohitassavaggo 9. Vipallāsa-sutta

支部経典 第四集 5.赤馬品 9.顚倒経

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0402m3.mul4.xml

 

9. Vipallāsasuttaṃ

49. ‘‘Cattārome , bhikkhave, saññāvipallāsā cittavipallāsā diṭṭhivipallāsā . Katame cattāro?

Anicce, bhikkhave, niccanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso;

dukkhe, bhikkhave, sukhanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso;

anattani, bhikkhave, attāti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso;

asubhe, bhikkhave, subhanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso.

 

比丘たちよ、Saññāvipallāsa(想顚倒)、Cittavipallāsa(心顚倒)、Diṭṭhivipallāsa(見顚倒)には、四種類ある。

Saññāvipallāsa、Cittavipallāsa、Diṭṭhivipallāsaは、Anicca(無常)なるものをNicca(常)と言う。

Saññāvipallāsa、Cittavipallāsa、Diṭṭhivipallāsaは、Dukkha(苦)なるものをSukha(楽)という。

Saññāvipallāsa、Cittavipallāsa、Diṭṭhivipallāsaは、Anatta(無我)なるものをAtta(我)と言う。

Saññāvipallāsa、Cittavipallāsa、Diṭṭhivipallāsaは、Asubha(不浄)なるものをSubha(浄)と言う。

 

 Vipallāsa(顚倒)。なんの実体のない藁屑のような空虚なものであるのに、それを「素晴らしい」「喜ばしい」ものであると錯覚させてしまう無明のトリックです。