免責事項
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免責事項については、思うところがあって、今回書かせていただきました。
最近、瞑想ブームというか、ネットでも瞑想の記事を多く見かけますが、個人的には安易に瞑想を勧める風潮を危惧しています。
理由は、瞑想に限らず、こういった精神系の情報は、有益な場合も多々ありますが、有害な場合も多々あるからです。
私の場合、おかしな瞑想をして、顔の筋肉の緊張が常時あるような状態になり、2年くらいしてようやく症状が緩和されたということがありました。
いろんなグループに出入りしましたが、素晴らしい体験をしたこともあれば、酷い目にあったということもあります。
オウム真理教の事件はもう前世紀のことであり、近年風化してきています。
しかし、オウム事件がわれわれに示した、こういった精神系の情報は場合によっては人の一生を破壊しかねないものだということは覚えて置かなければならないことだと私は思います。
瞑想法などの行法については、あまりにリスクが大きいので、Blogでは書いていません。経典の紹介等をメインにしています。しかし、経典にはまさに行法が載っているわけであり、経典と行法は明確に切り離せない面もあります。
経典なども出典等、「情報の出どころ」は、読む方が自分で真偽を確認できるように出来る限り載せるようにしています。
私は、現在では、行法については、古風な考え方をもっています。
行法については、ネットとかではなく、信頼できる師に直接教えてもらうべきだし、自分が修行上、体験したことには、自分の師以外には話しては行けないと思っています。
ネットで「私は○○という瞑想体験をした」というのを、不特定多数の人にわざわざ晒すのは、増上慢だと思いますし、それをマネた人が逆になんらかの障害をもってしまう可能性もなきにもあらずで、適切ではないと思っています。事実、危険性があるため出家者は具足戒を受けていない人に自分の瞑想体験を語るのは、戒律で禁じられています。ゆえに比丘戒を受けていない人が混じっている不特定多数の人に瞑想体験を発表するのも、破戒行為となります。(下記)
(参考)
私は、自分がBlogで書くことについては、責任を持ちたいと思いました。しかし、不特定多数の人に公開する以上、原理的に責任を持ちたくても、責任を持つことは不可能だという結論に達しました。
責任を持つことが不可能ならば、そのことは明確に明記すべきではないかと思い、今回免責事項をBlogに設定しました。
しかし、不特定多数の方に責任を持てないのは、私のBlogだけではなく、他サイトや一般に販売されている書籍についても同じ場合が多いです。
一般に「高名」といわれている僧が書いている書籍でも、経典に照らし合わせると「これはどうなのか」という記述も私の目から見ればあります。
自分を護ることができるのは、究極的には自分です。
皆様が正しい情報に出会われ、仏道を成就なさることを願います。
※免責事項の記述に関しては、こちらのサイトを参考にさせていただきました。
免責事項をサイトには書いておこう!書き方・文例 | A-key function 大学生が始めるべきネットビジネス起業
慈経 Metta Sutta(書きかけ)
8. Mettasuttaṃ
143.
Karaṇīyamatthakusalena, yanta santaṃ padaṃ abhisamecca;Sakko ujū ca suhujū [sūjū (sī.)] ca, sūvaco cassa mudu anatimānī.
[解脱という] 目的をよくわきまえた人が、
静かな場所に行ってなすべきことは [以下の通りである。]
何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人になるように。
●Karaṇīyam(〜すべき)
●attha(意味のあること)
●kusalena(巧み、善い)
●atthakusalena(自分の目的を知っている者、意味あるものを目指す人)
●Sakko サッコー「ものすごく上手、有能でなんでもできる性格、Ability」
●ujū,suhujū ウジュ、スジュ「まっすぐストレートで、性格はしっかりしている」
●sūvaco 言われやすい。その人を見たら何かを教えたくなるような性格の明るさ。
●cassa 彼の
●mudu ソフトで柔軟性があること。明るい。
●anatimānī atimānī(高慢、強情)の反対。謙虚でなくてはいけない。
144
144.Santussako ca subharo ca, appakicco ca sallahukavutti;Santindriyo ca nipako ca, appagabbho kulesvananugiddho.
足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、
裏表がなく、在家に執着しないように。Santussako 喜び、満足。いつでも幸福でいられる性格。
subharo 面倒を見やすい人。養いやすい人。
appakicco 雑事が少ない。
※kicca やらなくてはならない仕事。
sallahukavutti 軽い生活。簡素に生活する。すごく簡単で
Santindriyo indriya(感覚器官)を落ち着かせなさい
nipako 熟した人間。智慧のある人間。頭の良い人間。
appagabbho
145.
Na ca khuddamācare kiñci, yena viññū pare upavadeyyuṃ;
Sukhino va khemino hontu, sabbasattā [sabbe sattā (sī. syā.)] bhavantu sukhitattā.
[智慧ある] 識者達が批判するような、どんな小さな過ちも犯さないように。
幸福で平安でありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
146.
Ye keci pāṇabhūtatthi, tasā vā thāvarā vanavasesā;
Dīghā vā ye va mahantā [mahanta (?)], majjhimā rassakā aṇukathūlā.
いかなる生命であろうともことごとく、
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、
中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
147.
Diṭṭhā vā ye va adiṭṭhā [adiṭṭha (?)], ye va [ye ca (sī. syā. kaṃ. pī.)] dūre vasanti avidūre;
Bhūtā va sambhavesī va [bhūtā vā sambhavesī vā (syā. kaṃ. pī. ka.)], sabbasattā bhavantu sukhitattā.
見たことがあるものもないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
既に生まれているものも、[卵など、これから] 生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように。
148.
Na paro paraṃ nikubbetha, nātimaññetha katthaci na kañci [naṃ kañci (sī. pī.), naṃ kiñci (syā.), na kiñci (ka.)];
Byārosanā paṭighasaññā, nāññamaññassa dukkhamiccheyya.
どんな場合でも、ひとを欺あざむいたり、
軽かろんじたりしてはいけません。
怒鳴ったり、腹を立てたり、
お互いにひとの苦しみを望んではいけません。
149.
Mātā yathā niyaṃ puttamāyusā ekaputtamanurakkhe;
Evampi sabbabhūtesu,
mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ.
あたかも母が、たった一人の我が子を、
命がけで守るように、
そのように全ての生命に対しても、
無量の [慈しみの] 心を育てることです。
150.
Mettañca sabbalokasmi, mānasaṃ bhāvaye aparimāṇaṃ;
Uddhaṃ adho ca tiriyañca, asambādhaṃ averamasapattaṃ.
慈しみの心を、一切世間(すべての生命)に対して
限りなく育てることです。
上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して] も、
わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。
151.
Tiṭṭhaṃ caraṃ nisinno va [vā (sī. syā. kaṃ. pī.)], sayāno yāvatāssa vitamiddho [vigatamiddo (bahūsu)];
Etaṃ satiṃ adhiṭṭheyya, brahmametaṃ vihāramidhamāhu.
立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、
あるいは横になっていても眠っていない限り、
この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。
これが梵天ぼんてん (崇高なもの) の生き方であると言われています。
152.
Diṭṭhiñca anupaggamma, sīlavā dassanena sampanno;
Kāmesu vinaya [vineyya (sī. syā. pī.)] gedhaṃ, na hi jātuggabbhaseyya punaretīti.
Mettasuttaṃ aṭṭhamaṃ niṭṭhitaṃ.
[このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、
正見を得て、
諸々もろもろの欲望に対する執着をなくし、
もう二度と母体に宿る(輪廻りんねを繰り返す)ことはありません。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html
語句の意味引用:アルボムッレ・スマナサーラ長老『ブッダの「慈しみ」は愛を超える』