清浄道論におけるSaddhā(信)の定義
Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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出典:
清浄道論 第14章 蘊義釈 行蘊論
Visuddhimagga
14. Khandhaniddeso
Saṅkhārakkhandhakathā
https://tipitaka.org/romn/cscd/e0102n.mul2.xml
南伝大蔵経 第64巻 清浄道論3
https://www.daizoshuppan.jp/book/b449421.html
【Saddhā(信) ①】
464. Saddahanti etāya, sayaṃ vā saddahati, saddahanamattameva vā esāti saddhā.
「これによりて、〔人々が〕信ずるが故に、又は自ら信ずるが故に、又はこは信憑そのものなるが故に信なり。」
【Saddhā(信) ②】
Sā saddahanalakkhaṇā, okappanalakkhaṇā vā, pasādanarasā udakappasādakamaṇi viya,
「そは信憑を相とす。
又は信頼を相とす。
浄信せしむるを味とする。
あたかも水を澄浄せしむる真珠の如し。」
【Saddhā(信) ③】
pakkhandanarasā vā oghuttaraṇo viya.
「又は跳躍するを味とす。
恰も暴流を超度するが如し。」
【Saddhā(信) ④】
Akālussiyapaccupaṭṭhānā, adhimuttipaccupaṭṭhānā vā, ……
「不汚濁を現起とす、
又は信解を現起とす、……」
【Saddhā(信)⑤】
saddheyyavatthupadaṭṭhānā, saddhammassavanādisotāpattiyaṅga(dī. ni. 3.311; saṃ. ni. 5.1001) padaṭṭhānā vā,
「信を起こさしむべき事柄を足処とす、
又は、正法の聴聞等の須陀洹支(しゅだおんし)を足処とす」
【Saddhā(信)⑥】
hatthavittabījāni viya daṭṭhabbā.
「〔そは〕手・財産・種子の如しと知るべし。」
「手・財産・種子の如しと知るべし」
hatthavittabījāni viya daṭṭhabbā.
「以下は信を手・財産・種子に譬えたるなり。即ち手が物を取るが如く信は諸善法を取り、財産が所欲の物を得せしむるが如く信は諸善法を成ぜしめ、種子が果を産出するが如く信は涅槃の果を産出するなり。」
『南伝64巻』p.69
凡夫が読む『ケーサムッティ経』 (あるいは『カーラーマ経』)
Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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Twitterにあげたものを埋もれるまえにサルベージします。
https://twitter.com/zhaozhoux/status/1091490978010001410?s=21
『ケーサムッティ経』
(あるいは『カーラーマ経』)
Kesamuttisuttaṃ
増支部経典
第三集
第二の五十
7.大品 5(66)
Aṅguttaranikāyo
Tikanipātapāḷi
7. Mahāvaggo
5.Kesamuttisuttaṃ
https://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0402m2.mul6.xml
出典:
中村元監修
前田專學編集
浪花宣明訳(2017年4月)
『増支部経典 第二巻(原始仏典Ⅲ)』
春秋社
片山一良先生の出典:
片山一良(2008年)
『ブッダのことば パーリ仏典入門』
‘‘Alañhi vo, kālāmā, kaṅkhituṃ alaṃ vicikicchituṃ. Kaṅkhanīyeva pana [kaṅkhanīyeva ca pana (saṃyuttanikāye)] vo ṭhāne vicikicchā uppannā’’.
浪花訳:
「カーラーマの人たちよ、あなたたちが疑問を持つのは当然であり、疑念を持つのは当然である。疑問のあるところに疑念は生じる。」
片山一良訳
「カーラーマの者たちよ、そなたたちが迷うのも当然です。疑うのも当然です。迷うところに疑いが生じるからです。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)①
‘‘Etha tumhe, kālāmā, mā anussavena”
浪花訳
「さあ、あなたたちは風説に基づいて〔信じて〕はいけない」
p.120
片山訳
『パーリ仏典入門』p.229
「さあ、カーラーマの者たちよ、そなたたちは風聞によって(以前に聞いたことがあると)認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)②
“mā paramparāya”
浪花訳
「伝説にもとづいて〔信じて〕はいけない。」
片山訳
「伝統によっても(代々伝えられていると)認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)③
“mā itikirāya”
浪花訳
「聞き伝えにもとづいて〔信じて〕いけない」
片山訳
「憶説によっても認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)④
“mā piṭakasampadānena”
浪花訳
「〔三〕蔵の伝承によるからと〔信じて〕いけない。」
片山訳
「聖典との合致のみによっても認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑤
“mā takkahetu”
浪花訳
「思考にもとづいて〔信じて〕はいけない。」
片山訳
「理屈によっても認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑥
“mā nayahetu”
浪花訳
「理論にもとづいて〔信じて〕はいけない。」
片山訳
「原理によっても認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑦
“mā ākāraparivitakkena”
浪花訳
「外に現れたすがたから推理して〔信じて〕はいけない。」
片山訳
「様相の考察によっても認めてはなりません。」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑧
“mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā”
浪花訳
「〔自分たちの〕審慮して許容した見解にもとづいて〔信じて〕はいけない」
片山訳
「見解の歓受によっても(単なる予見によって)認めてはなりません」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑨,⑩
“mā bhabbarūpatāya”
“mā samaṇo no garūti”
を浪花先生は合体させて訳しているようです。
浪花訳
「〔説く人の〕有能そうなすがたにもとづいて『この人は沙門であり先生である』と〔信じて〕はいけない」
ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑨
“mā bhabbarūpatāya”
片山訳
「見せ掛けの可能性によっても(認められそうだと)認めてはなりません」
⑩
“mā samaṇo no garūti”
片山訳
「『この沙門はわれわれの師である』ということによっても認めてはなりません」
浪花訳
『カーラーマの人たちよ、あなたたちが
「これらの教えは善であり(ime dhammā kusalā)、
これらの教えは罪がない(ime dhammā anavajjā)。
これらの教えは識者たちが称賛しており(ime dhammā viññuppasatthā)、
これらの教えを完全に満たし、身につけると安楽をもたらす。
(ime dhammā samattā samādinnā hitāya sukhāya saṃvattantīti)」
と自分で知るとき、カーラーマの人たちよ、あなたたちはそれを身につけて住むべきである(upasampajja vihareyyāthā)」と。
このように[先に]説いたのは、これに基づいて説いたのである。』
『増支部経典 第二巻』p.125
経典について下手なことをいうと悪業になるので、怖いですね。
本日はとりあえずここまで……
関連:
■Amūlikā Saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信)
中部経典95『チャンキン経』(Caṅkīsuttaṃ)
komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn10/mn1
■Ākāravatī Saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信)
中部経典60『無戯論経』(Apaṇṇakasuttaṃ)