仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』―「本来性」「現実性」の議論についての疑問点

魚川祐司氏『仏教思想のゼロポイント』について。

ものすごくかんたんに言ってしまうと、「本来性」「現実性」の議論について、凡夫と覚者とでは、世界が、あるいは、世界の見方が、違うのではという素朴な疑問です。
覚者といっても、いろいろあるので、『仏教思想のゼロポイント』では、ゴータマ・ブッダを筆頭として考察しているようなので、ここでは阿羅漢(Arahant)とします。


ゴータマ・ブッダなどの阿羅漢の聖者にとっては、戯論寂滅(papañcavūpasamo)を達成している。
つまり、papañcaという「物語を作る機能」が消滅している。
したがって、「現実性」=「物語の世界」というのは、聖者にとっては消滅しており、
「本来性」の世界しか存在しない。
「本来性」「現実性」というのは、阿羅漢聖者の内部的な描写ではなく、あくまで、papañca(戯論)に覆われた凡夫からは「そう見える」というだけなのでは……というのが私の疑問。

関連する部分を以下に引用します。

 

p.194
 さてテーラワーダの教理では、認知のレベルには三つの層を認めていることになる。即ち、凡夫にとっての「現実」である「物語の世界」という、世俗諦の通用する層。そして、如実知見する者にとっての「現実」である生成消滅する世間諦の層。最後に、そのような世間の範囲を完全に乗り越えた世間の範囲を完全に乗り越えた、不生であり、無為である出世間(諦)の層である。
 ならば、このうち「本来性」と呼びうるのはどの層だろう。もちろん、テーラワーダの教理に即して言えば、心・心所・色・涅槃を勝義であるとするのだから、世間諦と出世間諦の二層が「本来性」にあたることになり、世俗諦の通用する「物語の世界」の層は、それに対応する「現実性」であるということになるだろう。

 

p.121
このような、渇愛・煩悩・我執に基いてイメージを形成し、それによって現象を分別して多様化・複雑化させ、「物語」を形成する作用のことを、さきほど紹介した言葉で papañca と言ってもよいだろう。そして、この papañca の滅尽ないし寂滅が、「世界の終わり」であり、また「現法涅槃」の境地であるということも、さきほど述べたとおりである。

 


p.194の一番目の引用から、

本来性=心・心所・色・涅槃 or 如実知見する者にとっての「現実」である生成消滅する世間諦の層と無為の出世間の層(涅槃、Nibbāna)。
現実性=物語の世界。凡夫にとっての現実。世俗諦。

ということが先ず言える。

そして、p.121の二番目の引用から、戯論寂滅(papañcavūpasamo)した聖者では、「世界が終わる」つまり、「物語の世界」が終わるという。

すると、はじめの「本来性、現実性の定義」と、「覚者は、戯論寂滅(papañcavūpasamo)した存在である」という事実を合わせれば、覚者の内部には、「本来性」の世界しか存在していないということになる。


p.204
現代の私たちが知っている仏教は、「本来性」に自足して「現実性」を忘れることも、「現実性」にただ埋没して「本来性」を知らずにいることも、どちらもゴータマ・ブッダと同様に、敢えて拒否した覚者たちによって、形成されたものである。

 

 上に述べたことにより、「本来性」と「現実性」というのはあくまで、凡夫からの見方、凡夫からは「そう見える」という話であって、戯論寂滅(papañcavūpasamo)したゴータマ・ブッダ、その他阿羅漢の内部に「現実性」(=papañca 戯論の物語の世界)は、消滅してしまっているのではないだろうかというのが私の疑問。

 

 はてして、ゴータマ・ブッダは、『「本来性」に自足して「現実性」を忘れることも、「現実性」にただ埋没して「本来性」を知らずにいることも、どちらも』『敢えて拒否した』のだろうか。

 確かに、われわれ凡夫からそのように見えるかもしれない。

 しかし、私個人の考えとして、ゴータマ・ブッダの内的な世界の説明としては、それは違うのでは、と思っている。
 「本来性」「現実性」というのは、あくまで、papañcaに覆われた凡夫から、覚者が「そういうものがあるように見える」という話だと思っている。