仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

Paṭhamasamajīvī-sutta(パタマサマジーヴィー スッタ)―男女が生前、死後、喜びの生存を生きるには。

Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本
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016 過去から現在へ、そして未来へ ~涅槃証悟へと続く永遠のパートナー~ | マハーカルナー禅師の原始仏教トーク

 

 原始仏教トークPodcast)16回で取り上げられたPaṭhamasamajīvī-sutta(パタマサマジーヴィー スッタ)を調べてみました。

 samajīvīとは「1つになって生きる」の意。

 

マハーカルナー禅師:この世で特に深い縁を持つ夫と妻というものは今生で初めて巡りあったのではなく、過去世から現在まで夫と妻としてずっとともに生きてきた場合が多いと言われています。

 

dapāricārikā(パーダパーリチャーリカー):輪廻を超えた夫と妻の関係の中で求道のパートナー。輪廻を超えて手に手をたずさえて涅槃証悟を目指してともに歩んでいくパートナー。

(ゴータマ・ブッダヤソーダラー妃など)

 

 映画、漫画、アニメなどで恋仲の男女が「死んだあともあなたと一緒に…」というのがある。(今、パッと具体的な作品が思い浮かばない)

 Buddha Dhammaでいうところの理想的な男女のパートナーというのは、世間的な欲を基盤としてものでなく、涅槃・解脱を目指す仏道修行のパートナーということのようである。

 そうしたパートナーの理想形が経典においてはナクラ夫妻である。

 この経典のはじめに、二人が若くして、結婚したということが語られる。

 そして、「今生でも死後も一緒にいるにはどうすればいいのでしょうか?」

と。

 それに対するブッダのお答えは、

 「二人がSamasaddhā(同信) 、Samasīlā(同戒)、 Samacāgā(同捨)、 Samapaññā(同慧)であれば、来世でも一緒にいられる」と。

  つまり、同じようにBuddha、Dhamma、Saṅghaに対してSaddhā(信)を持ち、戒律を守り、布施の行、Paññā(慧)の修業をすれば、来世でも一緒にパートナーでいられるということらしい。

 

Aṅguttaranikāya Catukkanipātapāḷi (6) 1. Puññābhisandavaggo 55. 5. Paṭhamasamajīvīsuttaṃ
支部経典 第四集 (6) 1. 福生品 55.

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0402m3.mul5.xml

南伝大蔵経第18巻 p.107-108

 

ある時、世尊はバッガのススマーラ山のベーサカラー(恐怖)林中の鹿苑に住したまへり、時に世尊は日の前分に内衣を著、鉢を取り、衣を被、ナクラの父居士の家に詣りたまへり、詣りおわりて設けの席に坐したまへり、時にナクラの父居士とナクラの母主婦とは世尊の在す処に詣れり、詣りおわりて世尊に問訊し一辺に坐せり、一辺に坐したるナクラの父居士は世尊に白さく―
「大徳よ、ナクラ母主婦は我の全く若きとき、若くしてめとれり、我はナクラ母主婦が意の勝(すぐ)れたるころも知らず、いわんや、復心の[勝れたること]をや、
大徳よ、我らはすでに現法においてたがいに見、また当来においても、たがいに見んことを欲す」と。
ナクラ母主婦もまた世尊に白さく―
「大徳よ、我はナクラの父居士の若き、若くして嫁せり、我はナクラの父居士が意の勝(すぐ)れたるころも知らず、いわんや、復心の[勝れたること]をや、
大徳よ我らはすでに現法においてたがいに見、また当来においても、たがいに見んことを欲す」と。
ブッダ「居士よ、もし、両家主とも已に現法においてたがいに見、また当来においても、たがいに見んとねがうならば、両人とも、同信、同戒、同捨、同慧であれ、
両人はすでに現法においてたがいに見、また当来においても、たがいに見る」と。
ブッダ
「両人信あり慎みて
乞える事の義を察し
如法に活く、夫と妻は
たがいたがいに愛語して
彼らの福利いやさかに
安穏楽は生まれ来る
両人ともに戒あらば
怨敵意安からず
世の両人の戒禁が
等しく法を履修せば
天の国に喜びて
欲を求めて歓喜なすと」

 

(後半マハーカルナー禅師の訳)

「もし夫と妻がDhammaに対して同じように深い信を持ち、
同じ戒を守って、ともに最高の徳行を実践し、
同じように広くて深い布施の心を持ち、
同じようにDhammaを正しく理解しているならば、
ふたりはこの世で夫と妻であるばかりでなく、
輪廻が続く限り未来においても、
ずっと夫と妻でいるだろう。
夫と妻がDhammaに対して深い信を確立しており、
広くて深い布施の心を持ち、
自らを律することに秀逸であり、
Dhammaにもとづいた正しい生活を送り、
お互いに慈愛あふれる優しい言葉を語り合うならば、
二人が受ける祝福には限りがないだろう。
豊かで幸せな生活が二人を待っているだろう。
このように二人が高い福徳を持っているならば、
不善な果報や不慮の災いは彼らを苦しめることができないであろう。
もしこのふたりが手をたずさえて、戒・定・慧のDhammaを一心に修行するならば、
死して後は二人そろって必ず天界に再生し、ともに末永く大きな喜びの生存を生きるであろう。」と。


5. Paṭhamasamajīvīsuttaṃ

55. Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā bhaggesu viharati susumāragire [suṃsumāragire (sī. syā. kaṃ. pī.)] bhesakaḷāvane [bhesakalāvane (sī. pī. ka.)] migadāye.
Atha kho bhagavā pubbaṇhasamayaṃ nivāsetvā pattacīvaramādāya yena nakulapituno gahapatissa nivesanaṃ tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā paññatte āsane nisīdi. Atha kho nakulapitā ca gahapati nakulamātā ca gahapatānī yena bhagavā tenupasaṅkamiṃsu; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdiṃsu. Ekamantaṃ nisinno kho nakulapitā gahapati bhagavantaṃ etadavoca –

‘‘Yato me, bhante, nakulamātā gahapatānī daharasseva daharā ānītā, nābhijānāmi nakulamātaraṃ gahapatāniṃ manasāpi aticaritā, kuto pana kāyena! Iccheyyāma mayaṃ, bhante, diṭṭhe ceva dhamme aññamaññaṃ passituṃ abhisamparāyañca aññamaññaṃ passitu’’nti. Nakulamātāpi kho gahapatānī bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘yatohaṃ, bhante, nakulapituno gahapatissa daharasseva daharā ānītā, nābhijānāmi nakulapitaraṃ gahapatiṃ manasāpi aticaritā, kuto pana kāyena! Iccheyyāma mayaṃ, bhante , diṭṭhe ceva dhamme aññamaññaṃ passituṃ abhisamparāyañca aññamaññaṃ passitu’’nti.

‘‘Ākaṅkheyyuṃ ce, gahapatayo, ubho jānipatayo diṭṭhe ceva dhamme aññamaññaṃ passituṃ abhisamparāyañca aññamaññaṃ passituṃ ubhova [ubho ca (sī. pī.)] assu samasaddhā samasīlā samacāgā samapaññā, te diṭṭhe ceva dhamme aññamaññaṃ passanti abhisamparāyañca aññamaññaṃ passantī’’ti [passissantīti (ka.)].

‘‘Ubho saddhā vadaññū ca, saññatā dhammajīvino;
Te honti jānipatayo, aññamaññaṃ piyaṃvadā.

‘‘Atthāsaṃ pacurā honti, phāsukaṃ upajāyati;
Amittā dummanā honti, ubhinnaṃ samasīlinaṃ.

‘‘Idha dhammaṃ caritvāna, samasīlabbatā ubho;
Nandino devalokasmiṃ, modanti kāmakāmino’’ti. pañcamaṃ;

 

 

OD>増支部経典 2 (OD版南伝大蔵経)