仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

清浄道論におけるSaddhā(信)の定義

Buddhābhivādanā 礼拝文


Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。


Bhājemi Pūjā 廻向偈


Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。


Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように


Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします


Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。


参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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出典:

清浄道論 第14章 蘊義釈 行蘊論
Visuddhimagga 
14. Khandhaniddeso
Saṅkhārakkhandhakathā

https://tipitaka.org/romn/cscd/e0102n.mul2.xml


南伝大蔵経 第64巻 清浄道論3
https://www.daizoshuppan.jp/book/b449421.html

【Saddhā(信) ①】‬

‪464. Saddahanti etāya, sayaṃ vā saddahati, saddahanamattameva vā esāti saddhā. ‬

‪「これによりて、〔人々が〕信ずるが故に、又は自ら信ずるが故に、又はこは信憑そのものなるが故に信なり。」‬

 

【Saddhā(信) ②】‬

‪Sā saddahanalakkhaṇā, okappanalakkhaṇā vā, pasādanarasā udakappasādakamaṇi viya, ‬

‪「そは信憑を相とす。‬
‪又は信頼を相とす。‬
浄信せしむるを味とする。‬
あたかも水を澄浄せしむる真珠の如し」‬

【Saddhā(信) ③】

pakkhandanarasā vā oghuttaraṇo viya.

「又は跳躍するを味とす。
恰も暴流を超度するが如し。」

【Saddhā(信) ④】

Akālussiyapaccupaṭṭhānā, adhimuttipaccupaṭṭhānā vā, ……

「不汚濁を現起とす、
又は信解を現起とす、……」

【Saddhā(信)⑤】

saddheyyavatthupadaṭṭhānā, saddhammassavanādisotāpattiyaṅga(dī. ni. 3.311; saṃ. ni. 5.1001) padaṭṭhānā vā,

「信を起こさしむべき事柄を足処とす、
又は、正法の聴聞等の須陀洹支(しゅだおんし)を足処とす」

【Saddhā(信)⑥】

hatthavittabījāni viya daṭṭhabbā.

「〔そは〕手・財産・種子の如しと知るべし。」

「手・財産・種子の如しと知るべし」
hatthavittabījāni viya daṭṭhabbā.

「以下は信を手・財産・種子に譬えたるなり。即ち手が物を取るが如く信は諸善法を取り、財産が所欲の物を得せしむるが如く信は諸善法を成ぜしめ、種子が果を産出するが如く信は涅槃の果を産出するなり。」

『南伝64巻』p.69

OD>清浄道論 3 (OD版南伝大蔵経)

OD>清浄道論 3 (OD版南伝大蔵経)

  • 発売日: 2005/04/01
  • メディア: 単行本
 

凡夫が読む『ケーサムッティ経』 (あるいは『カーラーマ経』)

Buddhābhivādanā 礼拝文


Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。


Bhājemi Pūjā 廻向偈


Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。


Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように


Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします


Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。


参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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Twitterにあげたものを埋もれるまえにサルベージします。

https://twitter.com/zhaozhoux/status/1091490978010001410?s=21

 

『ケーサムッティ経』

(あるいは『カーラーマ経』)

Kesamuttisuttaṃ


支部経典 

第三集

第二の五十

7.大品 5(66)

Aṅguttaranikāyo 

Tikanipātapāḷi

7. Mahāvaggo

5.Kesamuttisuttaṃ

 

https://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0402m2.mul6.xml

 

出典:

中村元監修

前田專學編集

浪花宣明訳(2017年4月)

『増支部経典 第二巻(原始仏典Ⅲ)』

春秋社

 

片山一良先生の出典:

片山一良(2008年)

ブッダのことば パーリ仏典入門』

大法輪閣

 

‘‘Alañhi vo, kālāmā, kaṅkhituṃ alaṃ vicikicchituṃ. Kaṅkhanīyeva pana [kaṅkhanīyeva ca pana (saṃyuttanikāye)] vo ṭhāne vicikicchā uppannā’’.


浪花訳:

「カーラーマの人たちよ、あなたたちが疑問を持つのは当然であり、疑念を持つのは当然である。疑問のあるところに疑念は生じる。」

片山一良訳

「カーラーマの者たちよ、そなたたちが迷うのも当然です。疑うのも当然です。迷うところに疑いが生じるからです。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)①

 


‘‘Etha tumhe, kālāmā, mā anussavena”

浪花訳

「さあ、あなたたちは風説に基づいて〔信じて〕はいけない」

p.120

片山訳

『パーリ仏典入門』p.229

「さあ、カーラーマの者たちよ、そなたたちは風聞によって(以前に聞いたことがあると)認めてはなりません。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)②

“mā paramparāya”

浪花訳

「伝説にもとづいて〔信じて〕はいけない。」

片山訳

「伝統によっても(代々伝えられていると)認めてはなりません。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)③

“mā itikirāya”

浪花訳

「聞き伝えにもとづいて〔信じて〕いけない」

片山訳

「憶説によっても認めてはなりません。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)④

“mā piṭakasampadānena

浪花訳

「〔三〕蔵の伝承によるからと〔信じて〕いけない。」

片山訳

聖典との合致のみによっても認めてはなりません。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑤


“mā takkahetu”


浪花訳

「思考にもとづいて〔信じて〕はいけない。」

片山訳

「理屈によっても認めてはなりません。」

 

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑥


“mā nayahetu”

浪花訳

「理論にもとづいて〔信じて〕はいけない。」

片山訳

「原理によっても認めてはなりません。」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑦

 


“mā ākāraparivitakkena”

浪花訳

「外に現れたすがたから推理して〔信じて〕はいけない。」

片山訳

「様相の考察によっても認めてはなりません。」

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑧

 


“mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā”


浪花訳

「〔自分たちの〕審慮して許容した見解にもとづいて〔信じて〕はいけない」

片山訳

「見解の歓受によっても(単なる予見によって)認めてはなりません」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑨,⑩


“mā bhabbarūpatāya”

“mā samaṇo no garūti”


を浪花先生は合体させて訳しているようです。


浪花訳

「〔説く人の〕有能そうなすがたにもとづいて『この人は沙門であり先生である』と〔信じて〕はいけない」

 

ケーサムッティ経(カーラーマ経)⑨


“mā bhabbarūpatāya”


片山訳

「見せ掛けの可能性によっても(認められそうだと)認めてはなりません」

 


“mā samaṇo no garūti”


片山訳

「『この沙門はわれわれの師である』ということによっても認めてはなりません」

 

浪花訳

『カーラーマの人たちよ、あなたたちが

「これらの教えは善であり(ime dhammā kusalā)、

これらの教えは罪がない(ime dhammā anavajjā)。

これらの教えは識者たちが称賛しており(ime dhammā viññuppasatthā)、

これらの教えを完全に満たし、身につけると安楽をもたらす。

ime dhammā samattā samādinnā hitāya sukhāya saṃvattantīti)」

と自分で知るとき、カーラーマの人たちよ、あなたたちはそれを身につけて住むべきである(upasampajja vihareyyāthā)」と。

このように[先に]説いたのは、これに基づいて説いたのである。』


『増支部経典 第二巻』p.125

 

経典について下手なことをいうと悪業になるので、怖いですね。

本日はとりあえずここまで……

 

関連:

 

■Amūlikā Saddhā(アムーリカー・サッダー 根拠がない信)

中部経典95『チャンキン経』(Caṅkīsuttaṃ)

komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn10/mn1


■Ākāravatī Saddhā(アーカーラヴァティ サッダー 可能性が高い信)

中部経典60『無戯論経』(Apaṇṇakasuttaṃ)

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