ニーチェ「迷信の二大敵は、文献学と医学」
『「此世の智慧」(狭義には、いっさいの迷信の二大敵である文献学と医学)を「愧(はずか)しめん」とする神、パウロの考案した例の「神」は、じつを言えば、かく行わんとするパウロ自身の果敢な決意にほかならない。(中略)パウロは、「此世の智慧」を愧しめんと欲する。
つまり、パウロの敵は、アレクサンドリア的な修練を積んだ達者な文献学者と医者なのだ。ーーパウロは彼らに挑戦する。実際、文献学者と医者を兼ねている人ならば、その上さらにアンチクリストである必要はない。
というのは、文献学者として、人は「神聖な書物」の背後に眼をやり、医者として、典型的なキリスト者の生理学的頽廃の背後に眼を注ぐことになるからだ。医者は「不治」と診断し、文献学者は、「贋作」と鑑定する。……
p.233
出典:
『アンチクリスト』
(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist-Fluch auf das Christenthum, 1888)
47節
西尾 幹二 訳(1991年)
『偶像の黄昏・アンチクリスト (イデー選書)』白水社
p.232-233
『アンチクリスト』で、ニーチェが、「迷信の二大敵は文献学と医学」と書いているのが、興味深いです。
師の握拳(Ācariyamuṭṭhi アーチャリヤムッティ)-長部経典16大般涅槃経
Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に廻向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
•『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本など
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大般涅槃経の「師の握拳(Ācariyamuṭṭhi アーチャリヤムッティ)」について調べました。
長部経典16『大般涅槃経』
Dīghanikāyo
Mahāparinibbānasuttaṃ
【ヴェールヴァ村における安居への出立】
Veḷuvagāmavassūpagamanaṃ
Disāpi me na pakkhāyanti;
dhammāpi maṃ na paṭibhanti bhagavato gelaññena, api ca me, bhante, ahosi kācideva assāsamattā –
‘na tāva bhagavā parinibbāyissati, na yāva bhagavā bhikkhusaṅghaṃ ārabbha kiñcideva udāharatī’’’ti.
「私(引用者註:アーナンダ尊者)にはもろもろの方角さえ明らかではなく、
世尊のご病気のために、私にはもろもろの法も現れてまいりません。
ですが、尊師よ、〈世尊は、比丘僧団について、何かを教示されない間、入滅されることがないであろう〉との一縷(いちる)の望みが生じました」と。
165-1.
165. ‘‘Kiṃ panānanda, bhikkhusaṅgho mayi paccāsīsati [paccāsiṃsati (sī. syā.)]?
「しかし、アーナンダよ、比丘僧団は私に何を期待するのですか。
165-2.
Desito, ānanda, mayā dhammo anantaraṃ abāhiraṃ karitvā.
アーナンダよ、私は内外の隔てなく、法を説いてきました。
165-3
Natthānanda, tathāgatassa dhammesu ācariyamuṭṭhi.
アーナンダよ、如来には、もろもろの法に対する師の握拳(ācariya-muṭṭhi)はないのです。
師の握拳 = ācariyamuṭṭhi。
パーリの註釈(Aṭṭhakathā)を調べましたところ、こういうことのようでした。
『ācariya-muṭṭhi
異教者たちには、師の握拳というものがあり、《自分の》若い時代には誰にも語らず、晩年になり死の床に横たわり、愛弟子に語る
如来にはそのように「これを老齢になった時、最後の場面で語ろう」と握拳を作り《秘密にして》、指導しようということで、置かれたものは何もない、の意』
3. Mahāparinibbānasuttavaṇṇanā
Ācariyamuṭṭhīti yathā bāhirakānaṃ ācariyamuṭṭhi nāma hoti.
Daharakāle kassaci akathetvā pacchimakāle maraṇamañce nipannā piyamanāpassa antevāsikassa kathenti, evaṃ tathāgatassa – ‘‘idaṃ mahallakakāle pacchimaṭṭhāne kathessāmī’’ti muṭṭhiṃ katvā ‘‘pariharissāmī’’ti ṭhapitaṃ kiñci natthīti dasseti.
https://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0102a.att2.xml
出典:
片山一良(2004年)
『長部(ディーガニカーヤ) 大篇I (パーリ仏典 第2期3)』
p.216-217
経典のなかの状況:
・ブッダ入滅前
・アーナンダ尊者が期待しているもの=ブッダの最後の教誡
註における師の握拳(ācariya-muṭṭhi)の定義:
・晩年になり死の床に横たわり、愛弟子に語る教え「経典のなかの状況」
と
「註における師の握拳(ācariya-muṭṭhi)の定義」が対応しています。