仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

スマナサーラ長老、ロヒンギャ問題について。

 

 

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 ロヒンギャ問題は、言及するのが難しい問題だと思います。

  歴史的には経緯を見れば 、かつてミャンマーではイスラムと仏教は、共存し、深い対立はありませんでした。

  しかし、イギリスの植民地化や第二次大戦の英軍、日本軍がミャンマーの社会、宗教を歪めてしまった側面もあります。

  ミャンマー仏教徒ロヒンギャの人々も、被害者であると同時に加害者であり、単純な善玉悪玉論で語れません。

 

 どうすれば、ロヒンギャの人々、その他ミャンマーの人々が幸せに暮らせるのでしょうか。

 また、そういう状態にするには、どうすればいいのでしょうか。

 とても難しい問題だと思いました。

 ただスマナサーラ長老の最後のツイート。からは仏弟子として、外してはいけないことだと思いました。

 

スマナサーラ長老:仏教が言っているのは、良いことをすればよい結果を得る。悪いことをすれば悪い結果を得るということ。そこに宗教は関係ないんです。仏教徒ミャンマー人が人を殺したら、それは仏教に反した悪行為であり、罪を犯したこと。それで終わり。仏教を守るためにやったんだといっても、そんなのは関係ない。

 

 「仏教のため」「民族のため」といっても、暴力など、心にAkusala(不善)が生起していれば、その行為は、Akusala。

 「不善をなさず、善をなせ。心を清めよ」(ダンマパダ183)という仏道から外れています。

 この点だけは、仏弟子として、外れてはいけないポイントだと思いました。

 

その言葉の意味を本当に理解しているのか?

  昔、法友の方が「ある言葉を本当に理解しているかは、結局、中学2年生にも説明できるかどうかなんだ」と言われていた。

  つまり、自分で、わかっているつもりでも、中学2年生がわかるように説明できなければ、本当は自分でも理解していないということだ。

  高度な物理や数学など、例外はあると思うが、一理ある考え方だと思う。

  というか、そういう観点で行くと、世の中、そもそもはっきりした定義のない曖昧な言葉がいっぱいあることに気づく。

  例えば、「宗教」とか、「瞑想」とか、「悟り」とか。

  私は、基本、そういった定義の曖昧な言葉を使うことはできる限り避けている。

  使わないとコミュニケーションが成り立たないということもあるので、絶対使わないということは難しいが……。


  ちなみにそういう観点で見て行くと、スマナサーラ長老は、だいたい中学生くらいにも理解できる言葉で、説法なさっていると、私は思う。