仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

死ぬときの“よりどころ”をつくる

ある漫画の死の描写がとてもリアルでグッとくるものがある「これはガチ」「すごく怖い」 - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1079099

 

  死ぬときは、目も見えず、耳も聞こえず、意識も朦朧とし……

  そういう状況で死んでいく。

  死ぬときに、死んで次にどこに行くかわからないというのは、ものすごく恐ろしいこと。

  私は自分の父の死に際してその恐怖の鱗片を垣間見た気がする。

 

  ダンマパダに以下のような文章がある。(岩波文庫ブッダの真理のことば 感興のことば』)

 

 f:id:Zhaozhou_zenji:20170618234434j:image

http://www.tipitaka.org/romn/

18. Malavaggo

235.
Paṇḍupalāsova dānisi, yamapurisāpi ca te [taṃ (sī. syā. kaṃ. pī.)] upaṭṭhitā;
Uyyogamukhe ca tiṭṭhasi, pātheyyampi ca te na vijjati.

236.

So karohi dīpamattano, khippaṃ vāyama paṇḍito bhava;
Niddhantamalo anaṅgaṇo, dibbaṃ ariyabhūmiṃ upehisi [dibbaṃ ariyabhūmimehisi (sī. syā. pī.), dibbamariyabhūmiṃ upehisi (?)].

 

   要するに、自分の死に際して“よりどころ”を作りなさいということだと思う。

  “よりどころ”とは善行によって作られた波羅蜜や善業などになると思う。

  自分は仏道修行に感じて、最終的な目標は解脱、涅槃だが、

  その途中の目標として、今生で如何に自分が死ぬときの“よりどころ”を確立させるかということを立てている。

   とても大切なことだと思う。

 

 

 

 

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

 

 マハーカルナー禅師の原始仏教トーク No.037「生きる技術と死ぬ技術 ~より善い転生を迎えるために~ 第一回」 出家修行と在家修行 - YouTube

 

無我論(3)―私とは何か?―Loke samaññaṃ(世の名称)、Vohāra(慣用語)(阿羅漢経 Arahantasuttaṃ)/イメージの裏切り(書きかけ)

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ルネ・マグリット「イメージの裏切り」(1929年)

 

 上の絵には、パイプの絵の下にフランス語で「これはパイプではない」と書かれている。

 これはどういうことだろうか?

 

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     私とは何か?

 まず第一に「私」とは「言葉」であると言える。

 お釈迦さまは、私と言うのは、「Loke samaññaṃ(世の名称)」、「Vohāra(慣用語)」であるとおっしゃられている。

 

Saṃyutta-Nikāya 1.Sagāthāvaggo 1. Devatāsaṃyuttaṃ 3. Sattivaggo
相応部経典 1.有偈篇 1.天相応 3章.剣の章 阿羅漢経
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0301m.mul0.xml

 

阿羅漢経 Arahantasuttaṃ

(神は世尊の近くで次の偈を唱えた)
「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろうか、『私が語る(Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya)』と、
また『かれらが私に語る(Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā)』と」

と。
(世尊は言われた)

「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろう。『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者(kusalo)は世の名称(Loke samaññaṃ)を知り
慣用語(Vohāra)でのみ表すであろう」

と。
(神は言った)

「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身体を保つ比丘は
言えるであろうか、比丘として
慢によって『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と」
と。

(世尊は言われた)
「慢の捨断者に縛りはなく、
慢の縛りはみな破られている
その妄執を超えた賢者は
言えるであろう、『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者は世の名称を知り
慣用語でのみ表すであろう」


‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā’’ti.

‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyya;
Loke samaññaṃ kusalo viditvā,
Vohāramattena so [sa (?)] vohareyyā’’ti.

‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Mānaṃ nu kho so upagamma bhikkhu,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya;
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā’’ti.

‘‘Pahīnamānassa na santi ganthā,
Vidhūpitā mānaganthassa sabbe;
Sa vītivatto maññataṃ [mānanaṃ (sī.), maññītaṃ (?)] sumedho,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya.

‘‘Mamaṃ vadantītipi so vadeyya;
Loke samaññaṃ kusalo viditvā;
Vohāramattena so vohareyyā’’ti.

 

 阿羅漢が「私が語る」と言っても、我が残っているわけではない。

 文を文として成り立たせるために、世間の言葉を借りて「私」と語っているという経典。

 

 最初のマグリットの絵「イメージの裏切り」の話に戻る。

 下記の記事を引用させていただく。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたかった。だから「これはパイプではない」と記述しているという。

 

www.ggccaatt.net

 

 言葉もイメージも、あくまで、言葉やイメージであって、「そのもの」ではない。

 「ペガサス」や「ユニコーン」という言葉があるからといって、「そのもの」実際があるとは限らない。

 

 私としては、イメージや言葉の裏切りには注意したいと思う。

 場合によっては、一生を無駄にしてしまうような大きな損害をもたらすかもしれない。

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

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