仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略

目指すものがわかれば、取るべき方法は限られる。現実(=Dukkha、苦)を見つめれば目指すべきものがわかる。それは、Dukkhaからの解放。http://bit.ly/2fPFTVC/Ugghaṭitaññū(ウッガティタンニュ)、Vipañcitaññū(ウィパンチタンニュ)、Neyya(ネーヤ)、Padaparama(パダパラマ)の四衆生について:http://bit.ly/1KmGR2V

無我論(3)―私とは何か?―Loke samaññaṃ(世の名称)、Vohāra(慣用語)(阿羅漢経 Arahantasuttaṃ)/イメージの裏切り(書きかけ)

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ルネ・マグリット「イメージの裏切り」(1929年)

 

 上の絵には、パイプの絵の下にフランス語で「これはパイプではない」と書かれている。

 これはどういうことだろうか?

 

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     私とは何か?

 まず第一に「私」とは「言葉」であると言える。

 お釈迦さまは、私と言うのは、「Loke samaññaṃ(世の名称)」、「Vohāra(慣用語)」であるとおっしゃられている。

 

Saṃyutta-Nikāya 1.Sagāthāvaggo 1. Devatāsaṃyuttaṃ 3. Sattivaggo
相応部経典 1.有偈篇 1.天相応 3章.剣の章 阿羅漢経
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0301m.mul0.xml

 

阿羅漢経 Arahantasuttaṃ

(神は世尊の近くで次の偈を唱えた)
「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろうか、『私が語る(Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya)』と、
また『かれらが私に語る(Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā)』と」

と。
(世尊は言われた)

「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろう。『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者(kusalo)は世の名称(Loke samaññaṃ)を知り
慣用語(Vohāra)でのみ表すであろう」

と。
(神は言った)

「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身体を保つ比丘は
言えるであろうか、比丘として
慢によって『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と」
と。

(世尊は言われた)
「慢の捨断者に縛りはなく、
慢の縛りはみな破られている
その妄執を超えた賢者は
言えるであろう、『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者は世の名称を知り
慣用語でのみ表すであろう」


‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā’’ti.

‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyya;
Loke samaññaṃ kusalo viditvā,
Vohāramattena so [sa (?)] vohareyyā’’ti.

‘‘Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Mānaṃ nu kho so upagamma bhikkhu,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya;
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā’’ti.

‘‘Pahīnamānassa na santi ganthā,
Vidhūpitā mānaganthassa sabbe;
Sa vītivatto maññataṃ [mānanaṃ (sī.), maññītaṃ (?)] sumedho,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya.

‘‘Mamaṃ vadantītipi so vadeyya;
Loke samaññaṃ kusalo viditvā;
Vohāramattena so vohareyyā’’ti.

 

 阿羅漢が「私が語る」と言っても、我が残っているわけではない。

 文を文として成り立たせるために、世間の言葉を借りて「私」と語っているという経典。

 

 最初のマグリットの絵「イメージの裏切り」の話に戻る。

 下記の記事を引用させていただく。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたかった。だから「これはパイプではない」と記述しているという。

 

www.ggccaatt.net

 

 言葉もイメージも、あくまで、言葉やイメージであって、「そのもの」ではない。

 「ペガサス」や「ユニコーン」という言葉があるからといって、「そのもの」実際があるとは限らない。

 

 私としては、イメージや言葉の裏切りには注意したいと思う。

 場合によっては、一生を無駄にしてしまうような大きな損害をもたらすかもしれない。

zhaozhou-zenji.hatenablog.com

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Sīmāsambheda、Vicakkhaṇa

Sīmāsambheda、Vicakkhaṇa。

個人的に重要な言葉です。

あんまりピッタリとした訳はありませんが、こういう言葉は、パーリ語のまま理解して覚えておいた方が、誤解が少なそうだと思いました。

sīmāsambheda

palidictionary.appspot.com

パオ・セヤドー『智慧の光』p.50

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf

限界の突破
極めて憎んでいる人に対して、慈愛が送れるようになるまで、修行者は逐一、慈心観の対象を取替えて修習すること。そしてその後に、修行者は更に一歩進んで、限界を突破する(siimaasambheda)ための修習をしなければならない。siimaa とは限界を指し、sambheda とは突破を意味する。限界とは何か?もし、修行者がある人には慈愛を送ることができるのに、他の人にはできないということであれば、限界があるということになり、この場合は、心境が平等で分別・差
別する心がなくなるまで修習しなければならないのである。

 


vicakkhaṇa

パーリ語辞典 水野弘元著
vicakkhaṇa:a.[vi-cakkhaṇa] 明眼ある,明察の.

vicakkhaṇa

Concise Pali-English Dictionary by A.P. Buddhadatta Mahathera
vicakkhaṇa:[adj.] skilful; wise.(m.),wise man.

 

palidictionary.appspot.com

 

智慧とは仏道実践することで現れる能力なんです。でも、その場その場で適切な解決策が閃くことは仏道に興味ない人にも必要な能力です。パーリ語ではvicakkhaṇa といいます。でも、それが智慧ということではない。智慧がある人には、いくらでもvicakkhaṇa の能力はあるんです。

https://twitter.com/jtba_talk/status/855963879951613952

 

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Buddhābhivādanā 礼拝文
Namo tassa bhagavato, arahato, sammā-sambuddhassa.
阿羅漢であり、正等覚者である、かの世尊に礼拝いたします。
Bhājemi Pūjā 廻向偈
Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā' vahaṃ hotu.
この功徳によって、煩悩の滅尽が実現しますように。
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu.
この功徳によって、涅槃に導かれますように
Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi.
この功徳を、生きとし生ける一切の衆生に回向いたします
Te sabbe me samaṃ puññabhāgaṃ labhantu.
彼等が、あまねくこの功徳を享受できますように。
参考、引用:
http://paauk.jp/2_1_uposatha.html
内PDFファイル
http://paauk.jp/doc/8silam.pdf
『モービー僧院読誦経』(はらみつ法友会)施本